生きたいから人を殺し、死にたくないから全てを奪う。
奪って、殺して、犯して、果てぬ欲望を満たそうと穴が空いた心に硫酸液を注ぎ喘ぐ。強者にとって下層街は絶対的な自由が確約された楽園だ。何故なら自分の感情を逆撫でする存在は直ぐに叩き潰し、見せしめとばかりに家族諸共尊厳を奪い、人として立ち上がる機会を殺す力があるから。飢えた心が発する叫喚に耳を塞ぎ、真に欲する望みを見ないフリが出来る者こそが下層街で強者として君臨することが出来るのだ。
底が空いた鍋のように満たされず、願望とはまるで違う欲望の水を注ぎ続ける強者とは逆に、弱者は選択も出来ずに朽ち果て命を落とす。生きたくとも生きられず、死にたくなくとも影のようにピッタリと張り付き、虎視眈々と血に濡れた牙を見せつける強者の視線に死を受け入れざるを得ない。生死の選択権を握られ、明日を迎えられることに頭を垂れて涙を流す者にとって、下層街は地獄と変わらない様相。
だからだろうか……少女にとってダナンの言葉は理解の範疇を越えた夢物語のような話に感じられた。弱者にも選択する義務があるとのたばうダナンに強い憤りを覚え、分からないと言っても考えろと突き放す彼に反発する心を抱いてしまう。
強者だからそんなことを言えるんだ。自分よりも弱い人間を相手にしているから余裕を持ち、綺麗な言葉を吐くことができるんだ。どうせお前も下層街を支配する三組織の首領と対峙した時、圧倒的な武力を前にした瞬間無様に命乞いをする。相手の靴を舐め、地面に額を擦り付けるだろう。血が流れ、肉と骨を擦り続けて。
内に芽生えた憎悪の火種は憤怒の業火となりて少女の心を炭へ帰し、己を背負って歩き続けるダナンの首へ手を伸ばす。怒りが一時的な狂気を呼び起こすように、力一杯気道を締め付けていた少女は死ねと呟き奥歯を食い縛る。
「……」
少女の手を機械腕で握り、強引に引き剥がしたダナンは「お前如きじゃ俺を殺せない。無駄なことをするな」と鼻で笑う。
「やってみなきゃ分かんないじゃんッ!」
「いいや、分かる」
「アンタも言ってたでしょ⁉ 自分のことは自分で選べって!!」
「そうだな」
機械腕が唸り、手指を器用に曲げ伸ばす。適当な鉄パイプを引っ掴んだダナンはそれを紙屑のように握り潰すと少女へドス黒い瞳を向け。
「これを見てまだ何かしようって言うなら……お前は大した奴だよ」
背中の半分までずり落ちた少女を背負い直した。
「……」
「……」
「アンタは」
「何度も言わせるな、俺はダナンだ」
「……ダナン、アンタ何処に向かってるの?」
「墓地だ」
「墓地? あそこはもう粗方死体が掘り返されたでしょ? ダナンみたいな……強い奴には縁が無い場所だと思うけど」
「……あそこには爺さんの墓がある」
「爺さん?」
「育ての親だ」
短い会話の中に滲み出す感情は悲哀と後悔の念。抑揚の無い声で話すダナンの顔は少女から見えず、ダナンもまた少女の顔を見る事はできない。しかし、二人の会話には理解し難い認識の壁があり、墓地へ向かう意味もまたすれ違っていた。
「へぇ、ダナンって名前もその人から貰ったの?」
「あぁ」
「運が良かったのね、アタシは何も無いのに」
「そうだな」
「……アンタ、会話する気ある⁉」
「それなりに」
「この鉄面皮! ぶっきら棒! えっと」
「他に何かあるか?」
「えっと、その、機械腕!」
「餓鬼の戯言だな」
ダナンの背を叩き、灰色の髪を引っ張った少女は不機嫌そうに眉を顰める。少女のことを気にも止めずに歩を進めていたダナンは闇が漂う路地裏を抜けると、掘り起こされた墓を素通りする。
居住区の……それこそ住所を持たない浮浪者や子供にとって死体が埋まった墓は宝の山だった。内臓を抜こうしても殺される心配は無く、もし機械義肢を装着した死体が埋まっていたならば分解して売り払うことができる。一時的ではあったものの、弱者の夢に溢れていた墓地は今や人っ子一人居らず、閑散とした亡霊の住処。
腐敗を通り越し、白骨化した死体の横を歩いていたダナンは不意に足を止め、マグナムを抜く。照準を墓石の前に立つ完全機械体の男……ダモクレスへ向けたダナンは滾る殺意を指に乗せ、少しずつ引き金を引き絞る。
「ちょ、ちょっと、止めなさいよ! あ、アイツは、ダモクレ」
「そうだダナン、その小娘の言う通り……。奴の墓の前で殺し合いは止めておこうぜ? なぁ……ダナン」
「……」
鋼の巨躯が機械の駆動音と共に振り返り、生身の眼の代わりに置き換えられた機械眼がダナンを射抜く。
「ダモクレス、何の用だ? お前に死者を想う心があったなんて意外だな」
「センチメンタルってのは大事だと思わないか? 感傷こそが人間の過去を掘り起こす採掘機……人を人たらしめる原動力だと俺ぁ思うがな」
完全機械体の狂人が何を言う。不愉快極まりないと云った表情で舌打ちしたダナンは周囲に視線を這わせる。
「安心しな、此処に居るのは俺一人だけだ。いいや、無頼漢ってのは常に一人で居なくちゃならねぇ。つるむなんざ論外……無頼漢足り得る資格は無い」
「お前のお友達は常に二人組だがな」
「雑魚がイキっているだけに過ぎん。弱者であることを信じられず、自分が強者側だと信じてぇから連中はつるむんだよ。ダナン、テメエが殺している無頼漢は無頼漢に非ず。真の無頼を語るには孤独を好み、自分以外を信じちゃいけねぇ。あぁそうだ……連中は殺すんだ。そうだろう? ダナン」
「……」
這い出た狂気の芽は瞬く間にダモクレスの機械体に根を張り巡らせ、泥のようにぬかるんだ殺意を漲らせる。
「ダナン、テメエも同じなんだよ」
「……」
「自分だけを信じて、他人を信用しちゃいねぇ。その意味が分かるか? 分からないなら、理解したくねぇなら教えてやる。テメエ程無頼の信条に適応した人間は居ない。奴がテメエをどう教育したか知らんがな……性根は俺と同じだ。誰も信じちゃいねぇし、信用したくもないんだろ?」
重々しい鋼の音を響かせ、ダナンの目の前に立ったダモクレスは歪な笑みを浮かべながら青年の瞳を見つめ。
「腕一本機械に置き換えたって、俺の目に見えるダナンって人間は完全な機械だ。自分の心も理解出来ず、求めているモノも知らず、命の意味さえ見つけられない哀れな機械人形……。ダナン……俺と来い。俺ならお前に生きる意味を与えてやれる。お前のお友達の面倒も見てやる。だからもう一度聞くぞ? 無頼漢に来い……ダナン」
「……」
少女の視線が宙を泳ぎ、ダナンのコートに顔を埋める。
無頼漢と云えば下層街を支配する三組織の一角。完全機械体か半機械体で構成された構成員は強者弱者関係無く人間を殺し、他組織の構成員を見つけ次第殺戮する下層街最大の暴力組織。その恐ろしさを老人から言い聞かされ、ダモクレスを名乗る男と出会ったら死を覚悟するように教え込まれていた少女は恐怖のあまり顔を引き攣らせる。
狂ってしまいそうだった。もしダナンが此処で首を縦に振り、無頼漢への加入を決めてしまえば先ず殺されるのは少女自身。せっかく拾った命を無惨に散らしてしまうのはあまりに惨い仕打ちだと叫びたかった。だが、強張った喉から漏れるのは掠れた悲鳴と震える空気。荒い呼吸を繰り返し、身を強張らせた少女はダナンのコートを握り締め、瞼をギュウと閉じる。
「……ダモクレス」
「……」
「お前は俺を殺すんだろ?」
「……」
「俺を殺したいなら、俺に殺されたいなら、矛盾した言葉を吐くなよ。耳障りだ。俺の前から消えろよ……お前のお友達だけで仲良くしていればいいだろ? 邪魔だ……ダモクレス」
そう言ったダナンは少女を背負ったまま老人の墓前に酒瓶を供えた。