ヘレスの刃によって断ち切れた右機械腕の切断面から赤黒い人工血液を噴き出し、火花を散らしながらイブの目の前に立ちはだかったダモクレスは歪な笑みを浮かべ、五枚の電磁クロ―を剥き出しにする。
「イ、イブ」
怯えた眼でイブの胸に抱きつく少女の顔は青褪め、恐怖で今にも崩れ落ちそうな程歪んでいた。目に涙を浮かべ、歯をカチカチと鳴らし、衣服を握る両の手は小刻みに震える。当然だ……ダモクレスという死と暴力の体現者を前にして正気でいられる程少女は強くないのだから。
どうしたらいいのか分からない。今直ぐにでも逃げてほしいし、うつ伏せで倒れるダナンを助けてほしくもある。だが、それを選択するのはイブであり、少女ではない。一枚の銀翼を揺らめかせ、銀の羽根から紫電を迸らせたイブは少女を抱え直すと「ダナンを殺さないの? 完全機械体」挑発染みた言葉をダモクレスへ投げかけた。
「ダ、ダナンを、見殺しにするの?」
「貴女は少し黙ってなさい」
「でも―――ッ!!」
「私はこの機械体と話しをしているの。で、どうなの? ダナンを殺したいんでしょう? 今が絶好の機会だと思うのだけれど? 私に構っている暇はあるの? 完全機械体」
少女の口を塞いだイブはダモクレスの機械眼を睨みつけ、地面に倒れるダナンの様子を一瞥する。
浅い呼吸だが息はしているようだ。コード・オニムスの解放による疲労状態か、バックファイアの後遺症……。彼の身体は戦える状態ではない。全身の筋繊維が千切れ、血管を駆け巡る血は煮え滾って沸騰しているだろう。ルミナを持っていたとしても戦闘可能状態まで回復するには二、三時間は要する筈だ。
時間を稼ぐか、ダモクレスと敵対するか。逡巡する思考は一秒未満。戦ったとしても、ダナンと少女二人を守りながら戦える自信は無い。必ずどちらかが死ぬ。それは火を見るよりも明らかで、抗えない二つの選択肢。
「ダナンを殺すか、私と戦うか。ダモクレスだっけ? いいわよ、貴男の好きにしたらいい」
「小娘ぇ」
ダモクレスの装甲が熱を放出しながら揺らめき、無機質な機械眼に憤怒が宿る。
「奴はなぁ、ダナンならば復讐者を、狂人を殺さねばならないんだッ!! 今こうして、無力なダナンを殺しても意味が無いッ!! 奴と本気で殺し合い、どちらか一方が死んだ瞬間に、命を散らした瞬間にこそ意味があるんだよッ!! 貴様のような小娘がどうこう言う筋合いは無いッ!!」
「そう? 貴男、私がダナンの番だとか言っていたわよね? なら私の言葉を聞くべきじゃない?」
「黙れよ小娘」
気泡弾ける溶岩が冷え固まるように、核熱たる激情を一気に冷え固まらせたダモクレスは落ちた右腕を拾い上げ、イブへ背を向ける。
「逃げるの?」
「違うな」
「目的も達さずに?」
「それも違う」
「何が違うって言うのよダモクレス」
倒れたダナンの頭を鷲掴みにし、イブへ投げつけたダモクレスは煤けた手帳を摘み取り。
「意味が無いから用は無し。俺とダナンの繋がりは一時的に燃え尽きた。また一から……価値を積み重ね、意味を成さねば俺の本当の望みは叶えられん。小娘、名前を言え」
「イブ」
「イブ、イブ、イブ……。あぁ覚えたぞ? 貴様の名前も、罪も、姿形を補助脳が記憶したぞ? 無頼漢はお前を見逃さない……イブ」
「……」
鋼を響かせ、墓地から去ろうと歩を進めるダモクレスは「神は七日で世界を創り、原初の人類たるアダムとイヴを創造した」残った左腕を広げ、笑いながら話す。
「約束の地へそびえ立つは生命と邪悪の樹。世界から王冠へ至り、無は無限へ、無限から流れ出した光は無限光を成す。神が原罪を人間へ刻み、罪を贖う罰を齎すのならばそれは苦痛に他ならん。イブ、お前は何故俺がダナンを殺さないのか問うのなら、それはセフィロトとクリフォトから成る二元の側面だ」
狂気を帯びた聖職者のような口振りでそう語ったダモクレスは己こそが原罪を刻まれた人間であるかのように、悪を冠する意味と価値を体現する殉教者であるという論理を並べ。
「悪は善を滅し、善は悪を撃滅せねばならん。善悪に拘るのも良し、罪悪に流され己が原罪の浄化を他者に求めるのも認めよう。だがな……結局それは個人的な感性の話に過ぎん。善悪相殺、原罪浄化、罪と罰の永劫なる流転劇……。人は己の為に強く在り、他者など不要と断ずるべきだ。無頼を信じ、個を尊重してこそ個我と自我は守られる」
故に、俺はダナンという存在に意味を見出し、価値を鑑みた上で殺す。奴が生きているならば俺は生涯無頼を信奉し、この身に刻まれた原罪を浄化せずに愛した上で抱きしめよう。我が子のように、血を分けた魂として。
ダモクレスの言葉に、独自の哲学的思考に感銘を受けたワケではない。彼が話す言葉の端々は矛盾を孕み、崩れてしまった存在論。我思う故に、我在りという言葉を自己解釈し、都合良く読み解いた論理は暴論に近い。
だが、イブは肉体を機械に置き換えたダモクレスに一種の神性を感じずにいられなかった。ありとあらゆる不条理をミキサーに詰め込み、砕いて切り刻みながら丁寧に破片を拾い集め、再構築した無頼の殉教者。ダモクレスとは暴力のカリスマであり、狂気に塗れた神性を抱く王冠の独裁者なのだろう。
認めてはならない―――。生身の身体を捨て去り、機械の身体で力を得た人間の言うことなど戯言に過ぎないのだから。
ダモクレスの言葉に共感を抱いてはならない―――。その手に握られているものは飽くなき力への渇望で、無頼を奉ずる完全機械体の言葉など狂言に過ぎないのだから。
しかし……彼の言葉を完全に戯言と切り捨て、狂っていると吐き捨てるには心の何処かで納得してしまう部分があるのもまた事実。
「貴男は何をどうしたいの? ダモクレス」
「それを聞いたところで意味を成さないのはお前も理解しているんだろ? イブ」
「そうね、貴男がどれだけ綺麗で整った言葉を吐いたとしても、結局それは自分のためだけの理屈だもの。貴男が率いる組織以外に、無頼の信条に共感できる人間は居ないわ」
「それでいい」
「へぇ、理由を聞かせて貰っても?」
「無頼だから。それ以上の理由も、それ以下の理屈も必要ない。無頼という旗の下に集う人間は個を優先し、己こそを至高と断ぜねばならん。己を卑下する輩は無用、己を無価値と鑑みる人間は死んでしまえ、己を無意味と感じる人間は跡形も残さず滅殺する。駆逐するべき存在は弱者に非ず。真に排除し、撃滅せねばならんのは他者に縋り、虎の威を借る狐だろう? なぁ……イブ」
そう言ったダモクレスは背部ブースターを吹かし、墓地を後にすると路地裏の麻薬密売人を血祭りにあげ、舞い散る血肉で装甲を真紅に染める。断末魔を燃料に、欲望の色に染まった人間を屠りながら突き進む完全機械体は個人戦車と変わらない姿だった。
「……」
「イブ……?」
「……いいえ、何でもないわ。ダナンを連れて帰りましょう」
「うん……」
少女を抱き締め、銀翼でダナンを包みこんだイブは地を蹴り上空へ飛び立つ。生温く、腐臭が混ざった空気を切り裂きながら、厚い鋼鉄板に覆われた空を征く。
もしもという可能性の話しをしても仕方がないことは分かっている。誰の手を握るのかは自分で決めるべきだし、その手を払い除けるのもまた自分なのだ。だが、もし己が最初に出会った塔の人間がダナンではなく、ダモクレスだったら自分は彼の手を握っていたのだろうか? いや……今更そんなことを考えるのは余りにも無意味であることは、イブ自信も理解していることの筈。
「貴女は」
「え?」
「もしダモクレスのに手を差し伸べられたら、その手を握っていたの?」
「……多分」
「多分?」
「考えてる内に、殺されてたんだと思う」
「ダナンは?」
「ダナンは……うん、助けてくれたから。それで」
「……」
「自分で、弱者であっても、選ばなければいけないと言っていたから。だから、アタシはダナンの手を、握ったんだと、助けてって言ったんだと思う」
「……そう」
「イブは」
「なに?」
「ダナンの何なの?」
「私は」
協力者かしら? それとも……。鼓膜を震わせる風切り音に掻き消された続く言葉は空に溶け、少女の耳に届くことはなかった。