重い瞼をゆっくりと開けたダナンの目に映ったのは、ジッと己の顔を見つめる少女の瞳。
「起きたよ! リルス! イブ!」
ダナンが今起きたばかりだと口走る前に、少女は驚きと喜びが奇妙に入り混じった複雑な表情を浮かべながらモニター・ディスプレイの画面を見つめるリルスの背に飛びついた。マグカップに満たされたコーヒーの水面が揺らめき、キーを叩き間違えたリルスは少女の頭を軽く撫で「当たり前でしょう? ダナンが簡単に死ぬ筈がないんだから」と呆れたように溜息を吐く。
「でも、ずっと眠っていたんだよ? 普通死んだと思うじゃん」
「あのね、ダナンは貴女や他の連中と違って中々に生き渋いの。暑苦しいから少し離れてくれる?」
「あ、ごめん」
少女の悲し気な顔を一瞥したリルスはもう一度溜息を吐き、伊達眼鏡のツルを指で上げながら「まぁ……寒いなら来なさい」身体に羽織っていたブレンケットを持ち上げ、コーヒーを一口啜った。
「……」
「ダナン」
「ダモクレスはどうなった」
「それはイブが一番知っていると思うわよ?」
ぼんやりと天井を見つめていたダナンは街灯の明かりに煌めく銀翼へ視線を移し、椅子に腰かけていたイブを見る。
瞼を閉じながら指先で膝をリズム良く叩き、銀翼に電子の粒子を纏わせるイブの姿にダナンは言いようの無い美しさを覚えた。幻想的な佇まいと言えばよいのだろうか? 否、そんなチャチな言葉でイブを讃えてしまえば、彼女の存在価値はそれ相応の価値に落ちてしまうだろう。
一度も目にしたことが無い金銀プラチナのインゴット、見たことも無いステンドグラス、輝き煌めく宝石類……。どれもダナンには縁がない貴重品の類いであり、生きていく上で必要の無い代物だ。しかし、イブを言い表すのにはそれらが最も適した例えであるのは間違いない。身体を起こし、汗で粘つく身体を適当なタオルで拭ったダナンは無言で銀の少女を見つめ、何を話すか逡巡する。
「……起きたのね、ダナン」
「あぁ」
「具合はどう?」
「問題無い。イブ、ダモクレスは」
「貴男と私を見逃して何処かに消えたわ。コード・オニムスを使って倒れた貴男と、その娘を家に運んだのは私よ」
「そうか」
「そうかって……もっと何か言うことがあるでしょう?」
「悪い、迷惑をかけた。それと」
「それと?」
「ありがとう」
リルスとイブの目が驚きの感情で満ち満ちて、息を飲む音が木霊すると。
「―――どういたしまして、ダナン」
予想外の言葉に動揺したイブがワンテンポ遅れて返事をする。
「リルス」
「なに? ダナン」
「俺の装備は何処だ?」
「浴室か洗面所にあるわ。なに? 起きてすぐ仕事?」
「違う、お前等も出かける準備をしろ」
「どうして?」
「飯を食いに行く。イブは会った事があると思うが……ゲートの治安維持兵、中層街の兵隊と会う予定がある」
リルスのキーを叩く音が止まり、レンズ越しに見える綺麗な目が驚きを隠せずにダナンを捉えた。
聞き間違いか何かだろうか? ダナンは決して誰かと行動を共にしない性格で、自分のプライベートを隠す人間だった筈。リルスが食事に誘っても九割方断られ、一人で過ごす時間を誰よりも大切にしているダナンが他人を食事に誘うのは極めて珍しい。
「クレジットは誰持ち?」
「俺が出す」
「なに? 心境の変化でもあったの?」
「別にそんなんじゃない。ただ……あぁ、少し」
「少し?」
「他人を、誰かを信用してみようと思っただけだ」
浴室へ歩を進め、衣服を脱いだダナンは微笑を浮かべながら、擦り硝子の扉を閉める。
「……イブ」
「なに? リルス」
「ダナン、少し変わったと思わない?」
「そうね、私も驚いたかも」
「驚いたってもんじゃないわよ……ダナンが食事に誘うのなんて今まで無かったのよ?」
「私は貴女程ダナンと付き合いが長いワケじゃないけど……先ずは喜ぶべきじゃない?」
それもそうね。作業内容を保存したリルスはPCの電源を落とし、少女と自分の服を見やる。
コーヒーのシミと皺が目立つ白衣に、黒を基調としたタイトスカートと黒いカッターシャツ。下層街では他人の服をジロジロと見る輩はそういないが、中層街の人間と会うのなら話は別。人差し指で顎を撫で、一つ深呼吸したリルスは少女へ「貴女、服はある?」問う。
「え? 服? これ以外無いけど?」
「……イブ、貴女は」
「私? 貴女の箪笥から勝手に拝借しているけど?」
「……」
「どうしたの? リルス、頭なんか押さえちゃって」
そういえば―――と、リルスはダナンの服が仕舞われている棚の引き出しを開き、黒い耐久スーツとボディアーマーの代えが並ぶ光景を目にすると「マシな服が一着も無いわね」呆れを通り越した笑みを浮かべた。
「ダナン!」
「なんだ」
「貴男どうやってその、お友達と会うつもりだったの⁉」
「どうって」
シャワーを終えたダナンが浴室から歩み出し、タオルで頭を拭くとリルスを横に退かせ、何時もの見慣れた姿……ボディアーマーとスーツを着込み、煤けたコートに袖を通しながら「これで十分だろ?」と当たり前のように話す。
「……馬鹿じゃないの?」
「意味が分からん」
「意味が分からなくて結構。ダナン、ちょっとは身だしなみに気をつけなさい」
「飯を食いに行くだけだぞ? お前の方こそ何をそうツンケンと」
「イブ」
「なに? リルス」
「貴女もよ? 自分の格好に少しでも疑問を持った方がいいわ」
「疑問? どうして?」
リルスの言葉につられ、鏡を見たイブは銀翼に包まれた己を瞳に映す。
服なんて結局は布の塊で、今己が身に付けている装備以上のモノなど存在しない。イブの身体を包む銀翼に、表皮にピッタリと張り付くナノ繊維皮膚装甲『薄氷』を脱ぐことは非合理的だ。本当に、心底理解不能だと目を白黒させるイブにリルスは肩を竦める。
「……えっと、貴女は」
少女へ視線を移したリルスはみすぼらしい外見に憐れみの目を向け、痩せた身体を優しく撫でると「可愛いんだから普通の服を買ってあげる。あんな人間になっちゃ駄目よ?」丁寧に櫛で梳いた髪を指先に絡めた。
「あんな人間って……ダナンとイブは、その、凄いと思う」
「そう?」
「うん……ダモクレスに対抗できる人間なんて見た事が無かったし、ダナンは……私を命懸けで守ってくれたんだもん。だから、そんな人を……悪く言えないよ」
「……ちょっとダナン」
「なんだ」
「この娘のお手本にならなきゃ駄目よ?」
「手本?」
「そう、貴男が育ての親の老人を見て育ったように、今度は貴男がこの娘のお手本になるの。分かった?」
「……」
「それが守った人間の責任で、負うべき責務よ?」
「……そうか」
煙草を口に咥え、火を着けたダナンは薄い紫煙を吐きながら少女の前に屈み「リルス、お前はどうするべきだと思う?」と話す。
「先ずは生きる術を教えるべきだと思うけど……今は仕事に向かわないのよね?」
「あぁ」
「ならその娘とイブ、私に服でも買ってあげたら?」
「……」
そうか。機械腕の手指を曲げ伸ばし、小さく頷いたダナンは「商業区に行こう。あそこなら金さえ払えば何でもある」玄関へ進み、ドアノブを捻り。
「ダナン」
「なんだイブ」
「やっぱり貴男……ううん、なんでもない」
「そうか」
「そうよ」
優しいじゃない、と言葉を飲み込んだイブを一瞥し、三人を連れて商業区へ向かうのだった。