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弱さ、強さ

 路地の闇に身を潜ませることには慣れていた。道端に転がる腐った死体も、窪んだ瞳を爛々と輝かせる同世代の子供の姿も、少女には見慣れた光景で日常の一コマに過ぎなかった。


 少しでも油断したら殺されるのは己の方で、大人にいたぶられる同世代の少年に救いの手を差し伸べたら次に理不尽な暴力を受けるのは少女自身。裸電球の明かりは少女にとって危険地帯であるという証明であり、辺りを黒に染める闇こそが身の安全を保証する隠れ蓑。背筋を這う悪寒に身震いし、一発の銃声を耳にした少女は目の前に転がった子供の死体に思わず足を止めた。


 ピクピクと痙攣する指先に蠅が止まり、真っ赤な血が路地の奥から流れ出る。生唾を飲み込み、足を止めていた少女の目の前にベルトの金具を留め直し、ズボンのチャックを引き上げていた男が現れると欲望に染まった眼が少女を射抜く。


 衣服を引き裂かれて眉間を撃ち抜かれた子供の身体には白い粘液が付着し、腕の肉や耳の一部が食い千切られていた。そして、男の口元に見える血痕から、子供は彼によって何かしらの暴行を受けた後に殺されたと少女は予想する。現に、男は錆びついた機械腕に握った拳銃を少女へ向け「脱げよ餓鬼」と下種な笑みを浮かべていたのだから。


 下層街の表通りは強者と弱者が入り乱れる混沌の炉だ。何時も何処かで日常的に人が死に、強姦殺人や強盗殺人が絶え間なく発生する無法地帯。どんな強者であろうとも、更なる強者と出会った瞬間にその者は弱者に転落し、全てを奪われる場所が表通りと呼ばれる大通り。路地は弱者が寄り集まって略奪と殺し合いを繰り広げる別の意味の地獄だが、表通りと比べれば弱者にとって比較的生き易い場所なのは間違いない。


 以前ならばこうした手合いと出会う前にゴミ箱の中に身を隠し、嵐が通り過ぎることを願いながら息を潜ませていただろう。血と虐がこの身に降り掛かることを拒み、目を瞑って生存を祈っていた。しかし、今は違う。


 ブーツの靴底がアスファルトを叩き、リボルバーの撃鉄が押し込まれる音が木霊した。少女の肩を鋼の手が握り、後方へ押し退けると煤けたコートを纏う青年……ダナンは男へリボルバーの銃口を向け「失せろ」と酷く冷めた声で言い放つ。


 「餓鬼」


 「な、なに? ダナン」


 「俺よりも前に進むなよ阿呆が。お前はリルスとイブの間に挟まってろ」


 「わ、私だって」


 「お前に何が出来る。銃も機械腕も持っていないクセに出しゃばるな」


 一発の銃声が鳴り響き、ダナンの機械腕が弾丸を弾く。甲高い金属音がビルの隙間に響き渡ると彼の褐色肌から鮮血が溢れ、宙に舞った。


 「―――」一閃と銃撃音「―――」男の視界がガクンと落ち、黒いアスファルトの地面が迫り来る。


 叫ぶ暇なく男の首はダナンの機械腕から展開されたブレードによって切断され、心臓には四発の銃弾が撃ち込まれていた。胸から噴き出す血を浴びて、次第に意識を失う生首の男を蹴り飛ばしたダナンは頬を伝う血を拭い、空薬莢を弾倉から弾き落とす。


 「ダナン、その」


 「お前が悪いと言っているワケじゃない」


 「……」


 「路地なら逃げ道は幾つかある。だが、もしこの場に俺が居なかったらお前は抵抗も出来ずに殺されていた。いや、死ぬより酷い目にあう可能性だってある筈だ。餓鬼、何時でも何処でも守って貰えると思うなよ? いいな?」


 「……うん」


 新しい弾薬を弾倉に詰めたダナンは少女を一瞥すると表通りに歩み出る。落ち込んだように項垂れ、足元の小石を蹴飛ばした少女の背をリルスは優しく撫でると「気にしないでとは言わないわよ? ダナンの言う通りなんだから」青年の後を追う。


 「……」


 「貴女」


 「なによ……私だって、ナイフを振るくらい、出来るんだから」


 「馬鹿ね」


 「馬鹿ってッ!」


 「ナイフで銃に勝てると思ってるなら、貴女はとんだ馬鹿よ? ダナンじゃなくても怒るわよ」


 クスリと笑ったイブを他所に、少女は苛つきながら男の銃を奪う。鈍い金属色の銃は所々錆びついており、完全に排出されなかった空薬莢がチャンバー内に詰まっていた。


 銃さえあれば誰かを殺すことだって、脅して何かを奪うことだって出来る。これは己の武器だ。武器は使ってこそ意味を成し、持ち主に異を唱えぬ道具に過ぎない。


 「その銃をどうするつもり?」


 「どうするって……ダナンに助けられる前に、私が自分で問題を処理するのよ」


 「どうやって?」


 「そりゃ……」


 殺して―――。イブの七色の瞳をジッと見据えた少女はダナンと同じように撃鉄を下ろそうとするも思いのほか固く、力一杯握り締めることでようやく半分程下ろす事が出来た。


 「そうしている間に貴女は死ぬわ」


 「……」


 「いい? 敵は待ってくれないのよ? 貴女の前に立った人間が引き金を引く前に、貴女はそうやってやっとこさ撃鉄を下ろす。身の丈にあった武器を選ぶべきね」


 まぁ、持っていても損は無いと思うけど。そう言ったイブに手を引かれ、歩を進めた少女は奥歯を噛み締める。


 弱さは罪だ。弱いから全てを奪われ、生き残る術を見失う。強く在ろうとしても子供という立場では信用を得られず、体格が勝る大人に勝つ術も無い。身を砕き、心を強くしていても脆弱で折れやすい精神は圧倒的な力の前では役に立たず、次の一手を見つけ出すのさえ苦労する有り様だ。


 守られる立場であれば楽に生きられる。命の危機も誰かが守ってくれると思えば逆立った毛は落ち着きを取り戻し、剥いた牙も収めることが出来るだろう。だが、それでは駄目なのだ。微温湯に浸かり、ふやけた心は芯を失ってしまう。強者に守られる弱者は次第に生存本能が希薄化され、囲いで飼われる駄獣へと成り果てる。それだけは……嫌だ。


 銃を握り締め、イブの横を歩いていた少女は表通りのネオンを見やり、その下を歩くダナンへ視線を向ける。煤けたコートから覗く機械腕は色とりどりの光線を反射する万華鏡のように思えたが、装甲部から流れ出す血を見るとやはりアレは武器の一種なのだと認識せざるを得ない。


 彼に追いつく事が出来るのだろうか? 一瞬の判断で最適な武器を選択し、顔色一つ変えずに目の前の暴力を捩じ伏せることが己に出来るのか? もしもう一度同じ状況に遭遇し、ダナンやイブ、リルスが居ない時……銃の引き金を引く事が出来るのだろうか? 分からない……。


 「……ねぇイブ」


 「なに?」


 「私は……あの、ダナンみたいに成れるのかな?」


 「さぁどうかしら? けど一つ言えるのは」


 「うん」


 「以前のダナンだったら貴女は見殺しにされていたかもね」


 「……ほんと?」


 「私も彼と付き合いが長いワケじゃないのよ? ダナンのことが知りたいのならそうね……リルスに聞くのが手っ取り早いと思うけど?」


 「……」


 ダナンの一歩後ろを歩くリルスを見つめた暫し逡巡すると首を横に振るい。


 「もう少し」


 「えぇ」


 「もう少し、見てみようと思う。多分……それが一番、ううん、私の中でダナンを知ることが出来る方法だと思うから」


 「そう? なら頑張りなさい。えぇ、人に聞いた話よりも自分で判断した方がいいと思うわ。私もね」


 「……イブ!」


 「うん?」


 「あ、ありがとね……話、聞いてくれて」


 「……別に? 貴女と話していたら……昔を思い出しただけだもの」


 それでも、と。ぎこちない笑顔を浮かべた少女はイブの手を強く握る。


 家族と云うものを知らなければ、家庭の温かさといったものも少女は知らない。物心ついた時から共に過ごしてきた老人を暴力によって失い、細やかな幸福など存在しないと少女自身思い込んできた。

 だが、三人を見渡した少女はもし自分に家族が居たならば、姉や兄が居たとしたら、こんな風なものなのだと……在りもしない幻想を抱いた。


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