クレジットさえあれば何でも買える。人も、情報も、食料も、クレジットが全てである商業区で長く生きていれば、他所の区で罷り通っているルールは直接命を奪いにくる危険なものだと、死体から人肉をナイフで削ぎ落していたサーシャは思う。
性欲と欲望の追及を是とする歓楽区は腐敗した堕落が横行する危険地帯だ。肉欲の坩堝構成員は昼夜問わず他区へ足しげく通い、路地に捨てられた赤子や身寄りの無い人間を拉致して欲望の捌け口に加工する犯罪組織。歓楽区に連れて行かれ、命からがら戻ってきた者は皆麻薬に脳を蝕まれた廃人と化し、路地の闇で身を売る街娼になっている事実をサーシャは知っている。
多くの人々が居を構え、ゲートと呼ばれる巨大昇降機が存在する居住区は、死肉と屍血から溢れ出す腐敗臭が印象的な比較的安全な区だ。無頼漢と呼ばれる強大な力を持つ個人的群体の存在に目を瞑り、彼等の復讐対象にならないよう生活していれば生き抜くことは歓楽区よりも難しくない。恨みを買わず、抵抗せず、身に降り掛かる暴力は全て己の不始末が招いた結果だと思い込む。骨だけになった死体の腕を屑籠に捨てたサーシャは額に滲む汗を拭い、ショットガンの弾倉に弾薬を詰める老婆を一瞥すると、血に濡れた両手を赤黒い水で満たされたバケツに突っ込み手を洗う。
爪に詰まった血を擦り、薄汚れたタオルで手を拭う。ショットガンの銃底で床を叩いた老婆が冷蔵保存容器を一瞥し、サーシャへ顎を使って指示すると彼女はそれを加工機械まで持って行く。
重苦しい機械音と臓腑に響く震動音。錆びた投入蓋を開き、粉砕機が回る機械へ人肉をぶち込んだサーシャは掠れた文字の上にある緑色のボタンを叩く。生肉がミンチにされる嫌な音が鳴り響くと同時に、機械と直結されている保存商品棚へ生肉団子が補充され、不必要な分は調理加工されて売店カウンターの商品棚に並ぶ。
何時も通りの日常と言えばそうだろう。商店を襲おうとした強盗を老婆が射殺し、残った死体をサーシャが解体加工する。一ヶ月間仕事を頑張れば働いた分の給料を貰い、使い道が思いつかない故に少女は漠然と積み上がるクレジットの数字を見つめ、生活に必要なモノを一ヶ月分買い込み消費を終える。他人との繋がりは希薄の一言に尽き、商業区の表通りを歩く労働者と己は他人であるが同じ存在でもあるとぼんやりと眺め、商店の二階へ戻り瞼を閉じる。
自分は何者でもない。何者にも成れず、何かを成し遂げられる程の力を持たない一個人。今の生活に不満は無いし、これから先の生活を鮮やかに思い描ける程器用な人間でもないのは自分でもよく分かっている。こうして死体を解体することにも慣れ、死が当たり前に存在することにも何の疑問を抱かない自分はやはり……路地出身の人間であると嫌が応に思い知らされる。
老婆が自分を拾ってくれなければサーシャという名前は無かったし、昔のように路地でその日を生きることに精一杯だった自分は名前の無い人間のまま生を終えていた。偶然ゴミ箱を漁って腐った人肉を頬張り、死に掛けていた自分を偶然拾ってくれた老婆はサーシャという名前をくれて、生きる術を教えてくれた。偶然が偶然を呼び、奇跡的に命を拾った自分は運が良かっただけなのだ。
「サーシャ」
「はい」
「客だよ、相手をしな」
老婆の視線を辿った先には四人の男女が立っていた。右腕に機械腕を持つダナンと白衣を纏うリルス、銀翼で身体を包んだ美しい銀髪を腰まで伸ばしたイブ、自分と同じくらいの齢と思わせるあどけない痩せた少女……。四人の内三人はサーシャも知っている人物であったが、イブの手を握る少女は見た事が無い。
「いらっしゃいませ、ご用件は何でしょう」
ダナンがサーシャの横を素通りし、老婆の前に立つと「婆さん、服が欲しい。四人分だ」とカウンター奥に並んだ古着へ目を向ける。
「アタシに話し掛けるんじゃないよ、今日の店番はサーシャさ」
「何故だ」
「さぁね、アンタに関係ないことだろう? ダナン」
そうか、と。ダナンのドス黒い瞳がサーシャを射抜き、彼の溝底より暗い目に少女は生唾を飲み込む。
ダナンという青年は何時も弾薬と食料品、ゼリーパックを買う人間の筈。服を買ったところなんて一度も見た事が無いし、衣類を買ったとしてもサーシャが覚えている限りでは耐久スーツかボディアーマーだ。
自分と同じように実用的な装備或いは物品しか買わないと思っていたダナンが衣服を見つめ、どれにしようか悩んでいる姿に違和感を覚えたサーシャは隣に立つリルスへ視線を送り、先んじてコード認証機のスキャナーを持つ。
「ダナン、アレがいいんじゃない? カジュアルスーツとかも似合うと思うけど」
「スーツは嫌だな。ネクタイを締められない」
「じゃあカッターシャツとかは? パンツはジーンズでラフな感じに」
「……お前が選んでくれリルス。俺は服に興味があるワケじゃないし、俺以外の連中は皆女なんだ。お前とイブで選んだ方が手っ取り早い」
「そう? なら何を買っても文句言わないでよね」
イブを呼んでカウンターの奥へ足を踏み入れたリルスを他所に、ダナンは腕を組んで老婆の隣に立つ。ショットガンのコッキング音が響き、一発分の空薬莢を排出した老婆は煙草を咥えると火を着け紫煙を吐く。
「ダナン」
「何だ? 婆さん」
「あの子はなんだい?」
「あの子?」
「銃を眺めてる餓鬼さ。ハッ……アンタの爺の真似事でもしようってのかい?」
煙草を口に咥えたダナンは老婆からマッチを貰うと機械腕で擦り、勢いよく燃え盛る炎を煙草の先端に近づける。
赤い火種が揺らめき、短い灰を形作る。紫煙を吐いたダナンは肩を竦めながら「俺は爺さんのようには成れないだろうよ」と呟いた。
「……一歩ずつ近づくっていう頭はないのかい? アンタには」
「……下層街で理想を持ち、憧れを追い求めることは無意味だろ? 婆さん」
「それでもだ」
先が短くなった煙草を排水溝へ弾き飛ばし、サーシャと少女を一瞥した老婆はダナンのドス黒い瞳をジッと見据え。
「諦めるのはアンタには似合わない。挫ける姿も見たくない。いいかいダナン、アンタはまだアタシやライアーズと比べれば全然若いんだ。変わるも変わらないもアンタ次第ってことを覚えておきな。いいね?」
「……」
濃い紫煙を口の端から押し出したダナンが薄い笑みを浮かべ、先の長い煙草を地面に落とすとブーツの底で踏み躙る。嫌なところを突かれたような、自分が認めていない現実を直視させられたような……年長者の助言を半分聞き流した青年は少女の傍に歩み寄り、棚に並べられた銃器を眺める。
「餓鬼」
「……」
「此処にお前が扱えるような銃は無い」
「そんなこと分かってる」
「分かってないからジッと見てるんだろ?」
「……」
ホルスターからマグナムを引き抜き、安全装置を外したダナンはそれを少女へ手渡し「撃鉄を引いてみろ」と話す。
無理だ。大口径マグナムの撃鉄を少女が引ける筈が無い。フルオートマグだとしても機械腕用にチューニングされた引き金は常人の筋力では一寸も動かせず、少女が顔を真っ赤にしながら力の限り握り締めようと、金属音の一つもサーシャの耳に聞こえない。
「重いか?」
「……うん」
「餓鬼、もしお前が銃を手にしても引き金を引けなきゃそれは単なる鉄屑に過ぎない。弾薬の装填方法を知ってるか? マガジンに弾丸を詰める方法は? 知らないだろ、何一つとして」
少女の脇に挟まっていた錆びた銃を取り上げ、機械腕でバラバラに握り砕いたダナンは俯く少女の頭を乱暴に撫でる。
「俺がお前にやってやれる事は限られているし、お前の人生全てに責任を持つことは出来ない。偶々助けて、偶々命を拾ってやれたことはお前の運が良かっただけなんだよ。だから……無理して大人と張り合おうとするな。お前は……自分がどうしたいか考えるべきだ」
苦虫を噛み潰したような、自分自身を責め立てているような表情でダナンは少女へそう語った。