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兵士の男 上

 マガジンに弾丸を込め、アサルトライフルに装填する。重い金属音が鳴り響き、ライフルの照準を通してゲートに並ぶ下層民を眺めた男は、少しだけ伸びた無精髭を撫でると手元に置いていた辞表願いを一瞥した。


 仕事を辞めることをとやかく言う必要は無い。誰にだって仕事を選ぶ権利があるし、義務を果たしている限り中層街は下を向く人間を見捨てない。男へ辞表を出した青年の手を握るのは愚かな思考であり、彼の自由意思を阻害する行為であることも男は重々承知していた。だが、こうして一人でアサルトライフルのグリップを握り、死んだ目で遺跡のゲートを目指す下層民を眺めていた男は深い溜息を吐く。


 選択の自由を阻む権利は誰にも無く、無限に広がる道をどう辿るかは当人の決断次第である。治安維持兵の過酷な現実に目を背け、また別の可能性を探ろうとして己とは別の道を選び取った青年は、中層街の権利を最大限に行使した知恵者だ。ただ単に金を得る為に働くのではなく、自分の能力を活かせる職業に転職しようとする彼の意思を誰が挫けようか。当然、それは誰にも手折る事が出来ない高尚な決意の表れで、男にはそれが羨ましくもあり、到の昔に失った若さの証明にも思えた。


 己は何も変えられない。現状に満足し、今ある生活を、守るべき幸福を捨てることが出来ない己はこのまま何も成せずに消えていく存在なのだろう。だからこそ……目の前にぶら下がっていた安定を断ち切り、職という鎖を自らの意思で砕いた青年に畏敬の念を抱かざるを得ない。


 「……」


 この仕事に不満は無い。職場環境や労働環境は最低最悪そのものだが、何分中層街のどんな職業よりも給料が良く、殺人に慣れてしまえば上から下される命令に何の疑問も抱かず従えばいいだけだから。


 「……」


 子供達の学費の為に引き金を引き、妻の為に銃弾を撃つ。肩に背負ったのは生活の為に稼がねばならないという家長の責務と、好きで抱えた苦労の枷。通行料を支払わずに遺跡用ゲートを通り抜けようとした少女の頭を撃ち抜いた男は、返り血が飛び散ったゴーグルを掌で拭い、アサルトライフルを構え直す。


 人を殺すことに慣れ過ぎてしまった。それに後悔は無いと言えば嘘になる。だが、己の子供達と同年代の少女を殺す事に何の呵責も覚えなくなってしまった己は、中層街に戻った時どんな顔をしているのだろう。前回と同じように善良な父の仮面を被り、家庭想いの夫としてふるまえるのだろうか?


 重い溜息を吐き、終業アラートのベルを耳にした男は引継ぎの兵士へ資料データを転送する。HHPC間でのデータ転送はものの一秒で完了し、コートを羽織った男へ兵士が「お疲れさまでした、課長」と背筋を伸ばして敬礼した。


 課長……。今の己が座す地位は先の掃除によるもので、決して勤務態度や実力が優れていたワケではない。先の責任者はサイレンティウム統括部長の指示により法で裁かれ下層へ落ちた。その空いた席に誰も座りたがらなかったが故に、治安維持軍総司令は下層街勤務歴が最も長い己に課長昇進という餌を巻き、鎖で縛りつけたのだ。


 引継ぎも何も無く、業務のやり方や書類作成の方法も知り得ない。当然だ、男は一度も管理職の席に座ったこともなければ、一晩で出来た数百人の部下を統率したこともなかったのだから。


 先代の責任者の日誌を見て、保存されていたデータを基に書類を作成する日々。どういった噂が流布されているのか……部下となった元同僚の目に畏敬の念が表れ、男の姿を見る度に敬礼を崩さない姿は笑いを通り越して一種のホラーとも思える挙動に見えた。


 「課長!」


 一人の若い兵士が書類の束を手に男へ駆け寄り、掌を額に当てて。


 「頼まれていた書類が完成しました! 確認お願いします!」


 男へ書類の束を手渡した。


 「あぁ……ありがとう。えっと、お前は」


 「ディアナです! 課長のお噂は聞いております! なんでもたった一人で五百人の暴徒を鎮圧したり、上から言い渡された命令を何があってもやり遂げたり……。課長、噂は本当なのですか⁉」


 「半分当たりだが、半分は間違っている」


 パラパラと書類を捲り、バイザー越しにディアナと名乗った兵士を一瞥した男は薄い笑みを浮かべて鞄のピンを跳ね上げる。


 噂の出所は元同僚か、中層街から新たに配属された兵士達か。治安維持兵の装備が下層民の持つ武器武装よりも高性能だからといって、五百人の暴徒……狂人達を鎮圧出来る筈がない。起動兵器を駆使し、ありったけの火力を集団にぶち込めば可能だが、ゲート付近で暴動が起きない限り在り得ない。


 しかし、ディアナが話していた噂は半分当たりであるのはまた確か。男は上……即ち治安維持兵及び軍を管理するサイレンティウムの命令に一度も背いたことが無ければ、任務に失敗したことも無い。下層街のある地点で起きた抗争を鎮圧しろと言われれば銃を構えて突撃し、血肉を浴びながら皆殺しを敢行する。兵士という立場に立ち、その役割に徹する男は中層、下層問わず誰よりも兵士らしい人間だった。


 「課長!」


 「どうした?」


 「次の掃討作戦は何時になりますか⁉」


 「予定に無いな」


 「あの!」


 「次はなんだ?」


 「私は軍学校卒であります!」


 「それで?」


 「暴徒鎮圧術、武器武装の扱い、強化外骨格及び機動兵器操縦技術は常にトップでした!」


 「へぇ」


 「だから」


 「だから自分の能力を試してみたいってか? 馬鹿なことを言うな、命のやり取りに慣れていないんだ。いいか? 軍学校卒業者が下層勤務を希望すること自体が珍しいし、普通ならお前はキャリア組……。中層勤務かサイレンティウムで俺達みたいな下層勤務者を顎で使う立場にあるんだ。お前の両親が掛けた学費は決して安くないし、期待もされている……いや、いただろう?」


 薄い笑みの向こうから吐き出された言葉は皮肉交じりの現実で。


 「いまこうしてお前が能力を試したがっている間に、他の連中はキャリア組としての階段を一歩ずつ上っている頃だろうな。ディアナ、一つだけ言っておくぞ? 自分だけの理想があるのなら、諦めきれない夢があるのなら、無理に下層勤務を希望するべきじゃなかったな。俺は」


 「課長、何を仰っているのですか?」


 何を呆けたことを……疑問に満ちた言葉を発したディアナはヘルメットを脱ぐと白髪交じりの黒髪を宙に揺らし。


 「下層勤務は紛れもなく私の意思であり、何故希望したのかと問われれば単純に給料が良いからです。十人姉弟の長女が両親の負担を減らすために金を稼ぐのは普通でしょう?」


 と、何を当たり前のことをと云った風で朗らかに笑った。


 「長い目で見れば確かにキャリアの方が金を稼げますし、危険が少ない任務を振り当てられるでしょう。しかし、下層勤務じゃ暴徒を鎮圧したり、ゲート料金を踏み倒そうとした輩を殺せば特別手当が支給されるんですよね? なら一気に弟と妹の学費を稼ぐことも出来ますし、奨学金の完済も早めることが出来ます! ある意味一石二鳥だと思いませんか?」


 理想や夢なんてへったくれも無い実利的で現実的な返事に男は驚いたと呟き、ディアナのヘルメットを再び頭に被せる。


 「なら頭は決して外に晒すなよ? 何時何処から銃弾が飛んでくるか分からないんだからな」


 「了解しました! それで、課長はこれからどちらへ?」


 「あぁ、これから」


 男の視界の端に見慣れた灰色の髪が映り、手を振りながら「飲みに行くんだよ、知り合いとな」酒を飲む仕草で彼女の質問に答えたのだった。



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