ディアナは男の素性について何も知らない。
草臥れた風で自分自身の可能性を諦め、課長という背負わされた地位に瞳を淀ませた男。下層街に配属されたディアナの男への第一印象は淡泊で不干渉、管理職の職務を半ば放棄した無責任の塊というものだった。
彼なりに課長の責務を全うしようとしているのだろう。不慣れな書類仕事に四苦八苦し、分からないところがあったら部下に頭を下げてでも聞いて仕事を熟す。それ自体は男の美徳であり、尊敬すべき点だが奇妙なことに男は何も知らな過ぎるのだ。管理日誌の付け方も、評価査定のやり方も、男は管理職が知っているべき業務を知らなかった。
彼の在り方は人間……社会人としては正しい姿だとディアナは思う。しかし、管理職という立場に在る人間としては正しくない。現に己が手渡した書類だって、簡単な業務管理記録のデータ処理。ある程度主任クラスのキャリアを積んでいれば誰にでも出来る仕事の筈。それが出来ない、分からないと話して仕事を任せるのは無責任極まりないと、ディアナは四人の男女の下へ歩を進める男をジッと見据える。
「よぉ遺跡発掘者、元気だったか?」
「相変わらずだ治安維持兵の兵隊さん。アンタは少し痩せたんじゃないか?」
「色々あったんだよ、本当に」
「そうか」
談笑しているワケでもなく、大して親しい間柄でもない微妙な関係性。アサルトライフルを肩に担ぎ、周りを警戒する素振りをしながら聞き耳を立てていたディアナに遺跡発掘者と呼ばれた青年……ダナンの視線が突き刺さった。
「兵隊さん」
「なんだ? 遺跡発掘者」
「友達か? アイツ」
「友達?」
男の目がディアナを撫で、乾いた笑い声を発しながら無精髭を撫でる。
「友達なんてそんな面白い奴じゃねぇよ。彼女は……俺の部下だ」
「部下?」
「そうだ、課長っていう椅子に座れば否応なしに沢山の部下が与えられる。まぁ、お前には分からんか。いや、分からない方が幸せだよ」
肩を竦め、頭を振った男にディアナは苛立ち、胸をざわつかせる。
そんなに嫌なら仕事を辞めればいい。中層街へ戻り、職業適性検査を受けて最適な仕事を選び出せばいいのではないだろうか? 男に対する怒りを胸に仕舞い、鋭い目つきをバイザーで隠したディアナは一つ咳払いすると、ポツリポツリと短い会話をするダナンと男へ歩み寄り「課長! 飲みに行くと仰っていましたがお時間は宜しいのでしょうか?」声を張り上げ、ネオンに濡れる居酒屋通りを指差した。
「時間……あぁ、そうだな。そういえば普通の店は営業時間があるんだったな。ありがとなディアナ」
「いえ! では私はこれで」
「そうだ」
何かを思い出したようにクツクツと笑った男はディアナの肩を叩きながら「お前も行くか? 奢るぜ?」とサイレンティウムから支給されたブラックカードをコートのポケットから取り出し、ディアナのヘルメットを指先で軽く叩く。
「課長、申し訳ありません! 私はこれから私用がありまして……また今度ということで宜しいでしょうか?」
「用があるなら仕方ないな。じゃ、また今度」
「はい!」
また肩を竦めた男は、綺麗な敬礼をするディアナを一瞥するとダナン達を連れて居酒屋通りへ歩を進める。
「いいのか?」
「何が?」
「あの女を連れて行かなくて」
「本人が断ったのなら、無理に連れていく必要は無いだろ? 違うか? 遺跡発掘者」
「そうだな」
男の後を追うダナンの瞳とディアナの瞳が一瞬だけ交差した。ヘルメット・バイザーの、ネオンの光を反射する黒いサイバネティクス・モニターの奥から睨むディアナの怒りを感じ取ったダナンは、マグナムのグリップを握り締めるとホルスターのボタンを弾き上げた。
この女は殺ると言ったら、殺す必要があるなら迷わずアサルトライフルの引き金を引く。肩に担ぐ銃はものの一秒で構えられるように工夫されており、右手の人差し指は僅かに曲げられ直ぐ様引き金を引けるようになっている。
よく訓練された兵士の姿勢。下層街の人間であれば容赦しないという強い殺意。剣呑な死の空気を醸し出し、何時までも此方の様子を眺めるディアナへダナンは「そんなに嫌か? お前の上が俺達と飲みに行くことが」と、撃鉄を引きながら言葉を吐く。
「嫌というワケじゃありません。ただ、下層街ゲート管理局の課長が下層民と酒を飲みに行くことに疑問を抱いただけです」
「疑問……ねぇ」
「下層街の治安やルールなどは私も理解しています。人の命が軽く、個人の権利が一切考慮されていない無法地帯。下層民、これは警告です。もし飲み屋通り……中層街治安維持軍が管理する場所で無法を成し、課長に危害を加えるならば貴男は下層街治安維持兵全員を敵に回すことになる。いいですね?」
拒否や拒絶といった言葉を封じ、頭を押さえつけるように言いたいことだけを話したディアナはダナンへ背を向け、駐屯所の居住マンションへ向かう。
「……」
「悪いな遺跡発掘者、アイツも悪い奴じゃないんだけど……下層民に対してはかなり厳しいんだよ。気を悪くしたら俺が」
「別に間違っちゃいない」
「……」
「アンタ等、中層街から見た下層街は最低最悪な場所だろうな。死体を見ない日が無ければ、腐臭を放つ臓物を踏みつけることにも次第に慣れる。あの女が言っていたことは何も間違っちゃいないんだよ兵隊さん」
「……そうかい」
「そうだ」
しんみりとした空気を振り払うようにダナンの背を叩いた男は「良い店があるんだ、騒がしくもなければ静か過ぎない飲み屋。俺がこうして誰かと飲むのなんて珍しいんだぜ? 遺跡発掘者」雑多な人混みを縫うようにして歩く。
色鮮やかなネオンに濡れる飲み屋通りは、主に治安維持兵を相手にしているせいか活気だって騒がしい。ジョッキを勢いよく叩き合わせる音、談笑しては泣き上戸になった者を慰める者、些細な勘違いで装備を脱いで殴り合おうとする血気盛んな兵士と賭けを煽る兵士達。下層街では見られない光景にダナンは警戒心を滾らせる。
彼が知る飲み屋とは麻薬入りの酒に脳を破壊された人間が、銃を乱射して壁に飛び散った血を恍惚とした表情で眺める酒屋兼賭場だった。博打に負けた人間が自分に残る血液や内臓を賭け、焦り逸る心を鎮める為に必要以上の麻薬をキメる無法の場。ただ単に酒を飲もうとしても、発砲音や叫喚が響き渡る飲み屋ではおちおち酒も飲めやしない。
「どうした遺跡発掘者、珍しいものでも見たような顔をして」
「アンタも下層街勤務が長いなら知ってるだろ? 俺がこうしている理由が」
「此処が俺達中層民にとっての普通で、お前たちにとっての異常。逆に言えば俺にとっちゃ下層街の飲み屋なんざ怖くて入れないぜ?」
認識……意識の違いだろうか。頻りに眼球を動かして周囲の様子を観察するダナンと同様に、彼の背に隠れるステラも呆けたような、それでいて興味津々な風で千鳥足で歩く兵士の顔を見つめる。
酒に酔っているのに命の心配をしていない。無防備な姿を晒し、他の店で飲んでいる客の肩に腕を回す姿に違和感しか覚えない。顔には出さずとも内心驚愕するダナンと、ありえないと云った表情で周囲を忙しなく見回すステラ、それとは別にこれが普通とばかりに澄ました顔で歩くイブとリルス。様々な反応を見せる四人を尻目に、男は古い建物の前に立つと疑似木材製の戸に手を掛け横に滑らせた。
「よぉ親っさん、やってるかい?」
濃い香辛料の匂いと油が弾ける心地いい音。中華鍋を振るい、煙草の煙を吐き出した老人が男を睨み。
「おぉ久しぶりじゃねぇか! エデス!」
と、張りのある声で五人を招き入れた。