氷に張り付いた泡が振動と共に弾けて消えて、グラスに満たされたコーラの向こう側……ガラス張りの喫煙所で煙草を吸うダナンをイブの七色の瞳が捉える。
薄い紫煙を纏い、壁に背を向け腕を組むダナン。鋼の指で煙草を摘み、乾いた唇でフィルターを咥える姿は何時もと変わらない。真っ赤な火種を呆けたように見つめるドス黒い瞳も、一口煙を吸っては溜息と一緒に吐き出す姿も、イブが知るダナンに他ならない。
ダナンが何を思い、何を考えているかなどイブは知る由も無い。彼と出会い、過ごした時間は一週間と少し……交わした言葉もそう多くなければ、極端に少ないと云うワケでもないのだが、イブはダナンが常日頃何を考えて生きているのかなど皆目検討もつかなかった。
己はリルスのように十年以上彼と共に時を過ごしてきたワケじゃない。そもそも己は目が覚めた瞬間に廃墟の山に埋もれ、コールド・カプセルの状況同期機能によって世界の状況を知ったのだ。塔が完成し、箱舟が廃棄処分となった事実や妹の裏切りによって計画が失敗したことも、全てが手遅れになってしまったことも……認め難い事実を突き付けられ、終わりを悟った。
今この瞬間、呑気に食事を楽しんでいる場合じゃないことは分かっている。限られた時間の中で終末に抗い、消えてしまった希望を手繰り寄せねば計画が成し得ないことをイブは痛い程に理解している。終わりを悟ったとて進めてしまった足を引っ込めやしないし、残された可能性を拾い上げる手段が見えずとも目的だけは見えている。両親と仲間達が託した希望を簒奪した裏切り者の妹を抹殺し、コードを奪いNPCと呼ばれる存在へ己が持つコード・オニムスを移植する。それがイブが成すべき使命であり、行くべき正しい道。ダナンはただの生体保存容器に過ぎず、コード・オニムスの保険だ。
しかし……ダナンを見つめていたイブの瞳が陰り、直視できないと云わんばかりに目を伏せる。
頼まれたのだ、彼女に。尊厳を破壊され、命と人格、人間が持てる全てを奪われ凌辱されたセーラにイブはダナンのことを頼まれた。彼を裏切らないで欲しいと、彼を信じてあげて欲しいと……。電子の海に消え、後悔の奈落に落ちた少女の願いがイブの使命感を鈍らせ、存在意義を不安定にさせる。
初めから塔の人間と関わらなければよかった。塔の人間を見つけ次第殲滅し、殺し続け、カナンとその同行者を殺すことが出来る機会を待つべきだった。そうしていたら悩みを持たず、面倒なしがらみに縛られることもなかった。
「……」これは己のミスだ「……」死に瀕したダナンを見捨てることが出来ず「……」カナンとカァスに対抗できる駒を得ようとして、一握り分のルミナを移植してしまった己のミス。
やろうと思えば今直ぐにダナンの心臓を動かしているルミナを取り除くことが出来る。だが、もしそれをやってしまったら彼は死ぬ。心臓が停止し、カナンに斬り裂かれた腹の傷が開き、内臓を垂れ流して一分以内に命を落とすだろう。生かすも殺すもイブ次第、彼女が殺すと決めた瞬間にありとあらゆる傷が開いてダナンは血達磨となる。
選べる選択肢は無限に見えるようで、もしかしたら一本に繋がっている血塗られた道なのかもしれない。泡立つ血溜まりを踏み締め、降り掛かる血飛沫に耐えながら進んだ先に見えるものは決して希望と言い難いくすんだ光。朧げで、明滅する光に指先が触れた瞬間爆ぜて消え、其処に残るものは奈落の闇より暗い黒。リルスはダナンに他の選択肢を……生き方を見つけて欲しいと願っているが、彼の肉体に蠢くルミナの真実を知った時、果たして彼女は己を何と罵り、誹るだろう。ステラの頭を撫でながら酒を呷るリルスを一瞥したイブは、コーラを口に含むと炭酸の刺激を感じながら飲み下す。
「……」
選べる選択肢など存在しない。
「……」
ただ己は成すべきことをやり遂げ、計画を実行するのみ。
「……」
其処に情が介入する隙間も、悩みや葛藤が入り込む余地を与えず。
「……」
世界を……両親と仲間が望んだ世界を手に入れるだけ。そのために己は―――。
「辛いよな、何かに縛られるってのは」
「―――ッ!!」
大きく目を見開き、皮肉気な笑みを湛えるエデスを見つめたイブは深い思考の泥濘から身を引き摺り出し、身構えるように銀翼を煌めかせる。
「生き方に縛られたり、立場に括られたり、役割に徹するってのは辛い事だ。今でこそ俺ぁ課長なんて役職に就いてるがな、元は一般兵……中層街でも珍しい高等教育課程を終えてない人間でな。いやぁ……随分と苦労したよ」
「中層街じゃ基本的に誰でも専門教育課程を終えているものだと思っていたけど?」
「普通はな。けど、若い頃の俺はどうしようもないロクデナシでさ、色々と問題ばかりを起こしていていた大馬鹿野郎だった。暴力沙汰なんて当たり前で、時には相手を半殺しにしたこともある」
「よく下層堕ちしなかったわね」
「……そりゃ俺には適性があったからな」
「適性?」
「人殺しと劣悪な環境に対する優良適性。ま、端的に言えば兵士に向いていたんだよ、俺は」
過去の傷を自ら抉り、苦い記憶を酒の勢いで吐露したエデスは合点が云ったと頷くリルスに苦笑する。
「俺に提示された……下層落ちを免れる為の条件は二つ。兵士に成るか、更生施設っていう名の牢獄へぶち込まれるかだった。可笑しいと思うだろうが……正直俺は嬉しかった。こんな俺でも出来ることがあったんだと、ロクデナシでも生きていける職があったんだと心躍ったね。でも」
「現実はそうじゃなかった」
「……御明察」
シン……と、騒がしかった店内が静寂に包まれる。苦虫を噛み潰したかのような表情で、無精髭を撫でたエデスにイブは父親の姿を重ね、思わず息を飲む。
「人生ってのは選択の連続だと言うけどよ、俺は顔も知らない誰かさんの人生を、可能性を踏み潰しながら進むものだと思ってる。皆は一人の為に、一人は皆の為に……そう耳障りの良い言葉を並べながら、人間は自分の為に己の道を進む。だから中層街でも権力闘争とか生存競争が存在していて、下は上を引き摺り落とす為に、上は下を蹴落とす為に行動している」
「……」
「結局人間ってのはさ、利己的で排他的な生物なんだよ。生身の感情を剝き出しにして欲望を滾らせ、生きる為に犠牲を強いる。秩序と法は檻であり、理性と叡智は首輪と鎖。本能の獣を閉じ込める為に人は人間という生物を定義し、エゴイズムの暴走を抑制しているんだ」
「つまり貴男は人間は皆自分勝手に生きているのが当たり前で、他者を踏み付けながら歩くことが当然だと思っているのね?」
ジョッキに残っていたビールを飲み干したエデスは、鋭い眼差しを向けるリルスの問いを一蹴して。
「当たらずとも遠からず……だな、お嬢さん」
指を弾くと代わりのビールジョッキをMrs.アイリーンに注文する。
「お前さんは下層街の人間にしちゃ聡い……いや、賢過ぎると言ってもいい。尊敬するぜ? こんな場所で其処まで頭が回るようになるのは。けど、俺が言いたいのは至って簡単、単純明解なことだ」
「それは?」
「人間らしく生きてもいいんだよ」
「……」
イブの視線が自然にエデスに吸い寄せられ、次の言葉を待ち望む。
「お嬢さん、俺は自己犠牲とか使命感なんて言葉は嫌いだ。吐き気がする。だけどさ……自分の命を賭けてでも、全てを投げ出してでも成し遂げたいと云う心には敬意を払う。誰かから与えられた役割とか、課せられた使命でもなく、自分自身が叫び、成し遂げたいと望んだ在り方が正しいと思うんだ。だってよ……それが一番人間らしい生き方だと、そう思わないか?」
すまない―――と、煙草を口に咥えたエデスはステラにウィンクし、ジッポライターの蓋を開く。軽い金属音とフリントから散る火花、そして燃えるウィッグ。紫煙を吐き出したエデスは天井を見上げ。
「心に従え。それが俺から言えるアドバイスだな」
煙で宙に輪を描くのだった。