人間らしく生きてもいい。言葉自体は綺麗に整った単語の羅列であり、誰でもスッと飲み込むことが出来る美しい一文だ。
だが、世界中の……塔という閉ざされた世界の中で真に人間らしく生きている者はどれくらい居るのだろう? 地球を荒野と砂塵で覆い尽くす大戦と、戦争から生き残った人間が逃げ込んだ先、地殻を穿いて建設された箱舟で種を存続させていた前世紀。
イブが知る人間とは廃墟と化した箱舟で共に生きた者達であり、塔という人類種の墓標から侵入してくる人間は敵として見るべき怨敵だ。銃火器と防護服に身を包む荒くれ者共は箱舟に残された技術を盗み出す盗人に等しく、抹殺対象に他ならない。イブ自身墓守と自負しているワケではないが、生まれ育った場所を荒らし回る部外者は害虫……罪を忘却した塵屑なのだ。
殺して、慟哭を聞き流し、銀翼から滴る血を振り払う。時には塔から廃棄された殺戮兵器と生物兵器を相手取り、火花を散らす記憶回路や生物兵器の遺伝子情報から塔の状況を読み取り憤怒を滾らせる。
人間らしく生きている者など、何処にも存在しないのだ。誰もがエゴイズムを追及してアルトゥリストを色鮮やかな言葉で排除する。白人がインディアンを迫害したように、黒人が過去の迫害を理由に白人を追い詰めるように……人が人らしく生きるということは、他者の尊厳や心を踏み躙ることから始まるのだ。歴史が過ちを繰り返すように、幾度となく、連綿と。
美辞麗句は必要無い。人間賛歌などまやかしに過ぎない。戦いに飢えることこそが人間の生物学的な本能であり、他の生物を喰らって生き延びることを遺伝子に刻まれた生存術。哲学を是とする思想家であろうともナイフとフォークを片手に肉を食み、思想に酔いしれる夢想家も植物を原料としたパンを引き裂き口へ運ぶ。自分だけが正しいと信じ込み、他者の間違いを糾弾し、自らが生み出した敵に棍棒で叩かれて尚己の間違いを認めない。刑を欲さず、罰を遠ざけ、罪を被り、悪を生み出す生物が人間と云う高等生物……否、万人的高次脳機能障害を患った総精神疾患者に違いない。
高尚な言葉は聞くに堪えず、煌びやかな虚言で彩られた戯言に吐き気がする。僧に入った坊主であろうとも子を作り、ある時には仏の御心を嘘で塗り固めて女子供を囲う醜悪さ。シスター、神父は神の存在を仄めかして淫行に耽る歴史もまた事実。人が人間らしく生きることは余りにも厳しく、自制と制約に縛られる生など人間には耐える事が出来ない生き地獄だと云えるだろう。
だが……淡いランプの下で顎髭を撫で、煙草の煙を吐き出すエデスを見つめたイブは彼の言葉にも納得出来る部分があると小さく頷いていた。
遺伝子的、精神的欠陥を抱えた人間が人らしく生きるにはどうしたらいいか。その永遠に繰り返される問いの答えを彼は簡単に言い当てて見せた。
心に従え。単純明快にして真を捉えている言葉だった。その一言を聞けば首を傾げる者や疑問に思う者も居る。しかし、エデスの放った一言は一つの道を指し示すだけでなく、無限に広がる海のような意味を持つ。
心に従うことは一見簡単そうに見えて、その実非常に難しい。たった一人の……個人の思考は数多の人の言葉に騙され、絆され、幾何学的模様を描く夜空の星のように姿を変えるものだ。心に決めた事であっても他者の助言や思考誘導によって考えを改め、全く異なる選択を選び取ることも多々あり、全く違う結末へ自分から足を進めてしまう。故に難しく、厳しい。
どんな賢人であれ、英雄であれ、勇者であろうと他者無くして自己を映す鏡を見出すことは出来ず、優勢思想を掲げる愚鈍な施政者は罅割れた鏡で屈折した己を見る。本当の自分を見つける者は意外と悪人……殺人鬼やカルト信仰の教祖であったり、破壊活動を主とするゲリラやテロリストの主犯が多い。他者を寄せ付けない圧倒的なエゴイズムを胸に抱き、ヒューミリティを排した思想と思考に彼等だけの神が宿るのだ。
悪人だけが神を宿し、人間としての自己像を見る鏡を持っている。ならば他の者……歴史に名を残した偉人は人間ではなく、何であるのか。イブは七色の瞳でエデスを見つめ、宙に漂う紫煙を手で払い「心に従えなんて軽々しく言うけど、貴男は本当の自分に従ったことはあるの?」と問う。
「俺か? さぁ……どうだろうな」
「答えて」
「今まで黙っていたと思うと、妙に食い下がるねぇお嬢さん。何だ? 何か癇に障ったかい?」
「……」
黙るイブと溜息を吐きながら灰を灰皿に落とすエデス。一進一退の駆け引き染みた静寂は、ジッポライターのフリントから散った火花で破られる。
「心に従えば失うモノがあって、無視することで手に入れられるモノもある。お嬢さん、これは中年の独り言……戯言だと思ってくれてもいい」
新しい煙草に火種が灯り、細い紫煙が宙に舞う。
「結局は自分は何がしたいのか、本当の心は何を叫んでいるのかが重要なんだと思う。逃げ出したい現実があって、心は立ち向かえと叫んでいたとしよう。だが、逃げ出さなければ、背を向けなければ自分の命よりも大切な何かを失ってしまう。その場合、逃げ出す選択が個人にとっての正解なんだ」
「……」
「より良い明日を得る為に逃げ出して、立ち向かうべき苦難に背を向ける。楽な方に流されているワケじゃないのに、辛い現実がまだ続くことを知っているのに、俺という個人は逃げることを選んだ。イブのお嬢ちゃん、そんな俺は人間らしく生きていると思えるかい?」
「それは」
どうなのだろう……。口を噤み、思考の泥沼に片足を突っ込んだイブは顎に指を当て、考え込む。
エデスの話した内容は選択の解釈……結果論から成る人間性の問題だ。彼は逃げ出さなければ大切なモノを失う現実に直面し、立ち向かうべき苦難に背を向けた。それは個人的幸福や希望的観測、損得勘定の観点から見れば個人の利益を追及した結果だと言える。だが、人間的側面から照らし出したエデスという男は、そんな理論に当て嵌まらない問いを提示している。
心に従えと話しながら、心の叫びに耳を塞ぐ。彼の論理からしたら、その行為は非人間的な行動だ。しかし、逃避の選択が今のエデスを形作り、こうして助言を与える立場に立たせているのならば、それは人間らしい生き方の一端であると云える。
人が生きる道は幅広く広がりながら次第に収束する点と線。他者の選択と交わる瞬間にその意思を打ち砕き、踏み付けながら歩む茨の道。もし、彼が逃げ出さずに心に従ったのならば、今この瞬間に交差する点が消え、違う場面に遭遇していた筈。そう考えたならば……人間らしく生き、心に従えという言葉は多面的にも思えよう。
「……多分」
「……」
「貴男は間違った選択をしたのかも知れないし、正しい選択をしたとも言える。心に従えば貴男と私は出会わなかった可能性もある。エデス、貴男は……自分自身に、嘘を吐いているの?」
「……聡くて賢い嬢ちゃんは好きだぜ、俺は」
「はぐらかさないで」
「はぐらかしちゃいないさ。ある意味正解だって言いたいんだよ」
「ならッ!」
「偽物でも、嘘でも、心に従わなくても、こうして若い人間に助言を与えられたなら俺は俺自身の選択に意味を見出せた。イブのお嬢さん、人間らしく生きるってのはやっぱり難しいんだよ。俺一人だけじゃ心に反した選択の意味もわからず、鏡を得ることも出来なかった。だから……長い時間を掛けてでも、自分の選択を誰かに聞いて貰って、人間らしく生きることが出来たか確認しなくちゃいけないんだ。違うかい? イブのお嬢さん」