目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

紫煙に陰り

 「……」


 長くなった煙草の灰がポトリと床へ落ち、バラバラに砕け散った。


 「……」


 紫煙を吐き出しながら白と黒が混ざり合う灰を眺めていたダナンは、その場にしゃがみ込むと深く項垂れ、両手を組む。


 生身の左手に感じるのは冷たい鋼の感触と、煙草の巻紙を燃やしながら近づく火種の熱。ジリジリと……フィルターに燃え移った火種から紫煙の代わりに黒い煙が立ち上り、ダイオキシンの嫌な臭いが喫煙所に広がった。


 「……」


 深い溜息に混じる嫌悪の声。灰の髪を掻き毟り、瞼をゆっくりと落としたダナンは「何をやってるんだ……俺は」と呟き、酔った頭をグルリと回す。


 テーブルから逃げたところで、状況が変わらないことは十分理解しているつもりだ。愛とか絆なんて言葉は実体の無い空虚なモノ。家族という概念も、温かい家庭なんていう幻想も、それら全てを知らない己に好意を抱く人間なんて存在する筈が無い。存在していい筈が無い。誰かを好きになることも無ければ、好かれる資格が無い人間が……絆や愛を知っていい筈がない。


 子供を作るという行為は決して感情から成る行動ではないのだ。種の保存を遺伝子が記憶し、生物の本能から命は生まれ、親と呼ばれる番と代替わりをするかのように生と死のサイクルを繰り返す。理性は本能を押さえ込む枷だと表現されるが、人間が生物の枠組みに在る限り遺伝子の檻から抜け出す術は無い。


 「……」


 いや……そもそもこんな事を考えている時点で、無意味な言い訳を積み上げているだけに過ぎないのだろう。目の前にぶら下がった甘い感情から必死に目を逸らし、自分の中に残されていた優しさを認めたくないから屁理屈を並べて否定する。下層街で生き残る為に必要な感情だけを残し、不必要な思考を淘汰して生きてきた。


 銃身をスライドして、弾丸を装填する。引き金に指を掛け、安全装置を外す。撃鉄を弾くか、引き金を引くかの違いで弾倉から装填された弾丸は火薬の炸裂と共に真っ直ぐに飛んで行く。指で銃を形作ったダナンは、発砲までの手順を再現すると深い溜息を吐き、自嘲する。


 一人殺しても、二人殺しても、人間を殺す事に変わりは無い。何時も誰かが野垂れ死に、無残な最期を遂げる下層街で殺人の数を誇ること程無価値なモノはない。殺す事を悪だと断じる変わり者が居たとしても、命の危機に瀕すれば考えを百八十度変え、殺人に一切の抵抗を示さなくなる。尤も、下層街でそんな輩を見た事はないのだが。


 誰もが殺人を経験し、罪に溺れる混沌の市。泡立ち腐敗した欲望が地獄の蓋をこじ開け、血に塗れた本能を剥き出しにする煌びやかな廃都。生きたいと願っても、死にたくないと祈っても、弱い人間は全てを奪われ強者だけが笑う罪の華。罪の肥溜めと揶揄される下層街で生まれ育ち、生きていたいと云う個人的な欲望を静かな激情に込めたダナンは、己が愛される筈がないと思い込み、現実逃避にも似た一種の自己欺瞞で乾いて罅割れた心を満たす。


 肉体的な痛みには耐えられる。血を吐きながら、垂れ流し、粘ついた膿を絞り出すだけでいいのだから。


 精神的な痛みにも耐えられる。孤独は常に己が内面に寄り添い、恋人のように空虚な嘘を囁いてくれたから。


 だが……心にぽっかりと空いた穴から流れる苦痛には耐えられない。満たされない何かを追い求め、疲弊して、八つ当たりのように銃を撃つ現実を知っているから。生きる意味を見出せず、死にたくないから戦うことを選び続ける己は、果たして本当に生きていると云えるのだろうか? 自分自身の人生を生きていると断言できるのだろうか?


 脂汗が額を伝い、背筋に寒気が奔る。在りもしない妄想が脳内を駆け巡り、嫌な思考が点と点を繋ぐように結びつく。


 何故生きていたいのか、それは死にたくないからだ。


 何故生きる意味を見出せないのか、自分自身に価値を見出せないから。


 何故死にたくないのか、死んでしまえば全てが終わり、自分と云う命が本当に無意味になってしまうから。


 何故進もうともせずに足踏みし、進まない。何故現状に満足し、打開策へ手を伸ばさない。何故鍵を渡されたのに行動しない。何故……自らに課せられた役割を、役目を果たそうとしない。


 それを問うているのだ、もう一人の私よ。


 「―――ッ⁉」


 ハッと息を飲み、周囲を見渡したダナンの隣に白い衣服を着た枯木を思わせる老人が立っていた。顔には表情を隠すように張りつけられたモザイクが、幾万学模様の色鮮やかな正方形が走り回る異形の面貌。背中から伸びる金属パイプと機械化された四肢を持つ老人は、モザイク群を僅かに揺らすとダナンの両目を覗き込み、濃い金属臭を放つ。

 「ずっと、ずっと探していたぞ。あぁようやく見つけた。さぁ―――役目を果たせ。在りし日の……過ぎ去った時の中に埋没された計画を進めろ。その為に貴様は存在しているのだ」


 「―――」


 「言葉を解せぬのか? だがそんな事はどうでもいい。子ならば親の手足となり、果たせなかった願望を成就しろ。今直ぐに、銃を握り全てを破壊しろ。その為の鍵は胸に在り、銃口は血肉と混ざり合っている筈。動け、我が子よ。早々に行動を開始しろ。いいな?」


 燃え尽きたフィルターがダナンの指を焼き、皮膚に爛れた火傷跡を刻む。その傷をルミナが修復し、白い線虫が塞いだ。


 身体が動かない。枯木の老人から目を離せない。思考が白濁し、纏まらない。ダナンを形成する自我が糸くずのように解け、崩れ去ろうとした瞬間、カウボーイハットを被った老人がモザイク顔の老人へピースメーカーの銃口を向ける。


 「おいおい―――。俺の息子に手を出さないでくれないか? 俺達は過去の亡霊らしく不干渉を貫こうぜ? な?」


 「……何故」


 「何故俺が此処に居るのかなんて云う質問は無しだ。お互い同じ身体に同居しているんだ、手の内は嫌でも分かるだろう? いや、お前なら言葉を交わさずとも理解出来ると信じてるよ、俺はな」


 泣きたくなる程の懐かしい声。


 「ダナン」


 「……」


 「愛される資格が無いと思い込んで、塞ぎ込むのも止めやしない。好かれる要素が無いと無意識に刻み込むのも、別にいい。だが……少しは周囲に目を向けてもいいんじゃないのか?」


 視界の端に映る煤けたコートと、微かに香る煙草の匂い。枯木の老人を押し退け、ダナンの

隣に立った過去の幻影……育ての親と云うべき老人は、項垂れるダナンの姿を見て、軽く笑う。


 「爺さん」


 「何だ? ダナン」


 「アンタは……どうして俺を、助けてくれる。何時も、俺が追い詰められる度に現れて、助言を与えて、消えるだけなのに……。アンタはもう死んだ筈だ。俺が……死体を見つけて、埋めたんだ。なのに……どうして」


 「息子だからな」


 「……」


 「あのなぁダナン、親が子を気にかけて何が悪いってんだ? 血の繋がらない家族であっても……其処に確かな絆があれば、助けようともするだろう? それは……お前も分かってる筈だと、俺は信じたい」


 老人がゆっくりと腕を上げ、一つのテーブルを指差した。


 淡いランプに濡れる温かな光景。ステラを膝に乗せたリルスが酒を呷り、イブと視線が重なり合う。彼女の七色の瞳に映る己はどう見えているのか、何を思っているのか、それは言葉を交わさなければ知り得ぬ心の深淵。


 「何時までも塞ぎ込んでないで行けよダナン。お前はもう……自分自身の家族ってヤツを手に入れかけているんだ。もう自分に嘘を吐くな、感情に泥を塗るな、本当の意味で前を向いて、歩き出せ」


 「けど、アンタに俺は……ッ!!」


 背中を思い切り叩かれたような衝撃と痛む頭。瞼を開けたダナンは何時の間にか眠っていたようで、痛みの正体はバランスを崩して倒れたから。


 「……何も、してやれなかったんだよ」


 頭を掻き、煙草の残骸を灰皿に捨てたダナンは、喫煙室の扉を開けてテーブルへ歩を進めるのだった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?