幾重にも張り巡らされた回線の中に一本の白い線があり、色鮮やかな電子のアクアリウムの中ではその線は多種多様な情報インフラに溺れてしまう程に脆く、儚く、消え入りそうに思えてしまう。
二十四時間三百六十五日、玉石混合の坩堝に沈められる虚偽情報と真実と……。腹に穴を開けられた電子の美女が妖艶な笑みを浮かべ、操作された情報を読み上げる商業区は清濁の海にして煌めく虚構の水面。真実は水底に沈む汚泥に秘匿され、虚偽や欺瞞が街をネオンに乗って駆け巡る人の手によって造られた巨大な水槽に他ならない。
回線の波を手繰り、情報という名の堆積物を掻き分ける。セキュリティを機雷と呼ぶ者がいるが、そんなものはテフィラにとって何の意味も持たない飴細工。指先でちょんと触れればセキュリティ・ウォールは積み木の崩れ、脆弱な硝子のように砕けて消える。電気信号模擬体、発達したインフラの中に溶け込み、全ての情報に問答無用でアクセスする能力を持つ少女にとって商業区とは彼女の為だけに造られたアクアリウムにして、閉じた箱庭なのだ。
ネオンに濡れるビルも、仮想に揺蕩う美女も、配管のように絡み合う複雑無比な通路も、全てがたった一人の為だけに存在している虚構。虚ろな街に講じられた情報の網と、魂が抜けたように歩く空の労働者、クレジットに支配された極度の拝金主義は虚ろそのもの。実体を持つ肉体ならば肩を掴めよう。だが、組織に歪められ、個人的な思いに惑わされる実態の無さは亡霊のよう。
虚ろわざる者が支配する空の街。どれだけネオンで飾られようと、雑多で美しい街並みを歪められた矛盾で彩ろうと、煌びやかな情報の渦で誤魔化そうと、内に肉を持たなければ街は死んでいる。死体のように生きる人間が、屍の街を雑踏で埋め尽くす地獄の中、商業区の支配権を握る組織、死者の羅列は首領の意思を代行する。異分子を排除し、異端を焼き尽くすのだと、身体に新たな刺青を掘りながら。
黒衣の下に見える肌に掘られた刺青は記憶である。殺しを成した記憶、クレジットを積む記憶、騙し騙された無数の記憶……それらを己が肉身に刺青として刻む彼等の脳にはその出来事は記憶されていない。忘却を信条として掲げ、拝金主義と秘匿主義に走る死者の羅列構成員は脳の記憶領域を金儲けの為に使い、それ以外のことは記憶に値しないと断じ、痛みを忘れないように刺青を刻んでいる。
死者の羅列は忘れない、精神的屈辱を。
死者の羅列は許さない、己が心身に受けた恥辱を。
死者の羅列は逃さない、首領が敵と見定め、味方とした欺瞞を。
死者の羅列は刻み込む……痛みに呻いた記憶、嗚咽に濡れた悲しみ、慟哭に沈んだ苦痛を刺青に変えて。
痛みとは生存本能の顕在化にして表出された人間性である。痛みを感じるが故に人間は生き、危険から身を遠ざけ、生存の一端を握ることが出来るのだ。だが、その痛みを忘却する者は微かな人間性を排した亡者とも云え、痛みに紐づいた記憶を保存しない者は危機に疎い屍とも例えられる。
刺青に変えた記憶は肉体を黒に染め、度重なる辱は塵のように降り積もる汚泥。黒ずんだ肌を視界に映す度に死者の羅列構成員は身に覚えのない憎悪に復讐を誓い、クレジットを復讐の糧として空虚な街に積み上げる。うず高く積み上がったクレジットの岩礁は、苔むした柴色のビルを建築すると海流の如く渦巻くネオンを回し、アクアリウムを彩ると同時に箱庭を虚構で埋め尽くす。それが死者の坩堝構成員の生であり、命の使い方。首領メテリアの意思を代行する者達の生命の在処である。
永遠の狩人と獲物を追う追跡者、死の代行者として強化外骨格を駆る襲撃者、クレジットや物に限らず命の取り立てを行う無貌……死者の羅列は獲物を逃がさない。例えそれが金の卵を産む鵞鳥であったとしても、メテリアの指示一つで彼等は冷酷な代行者と成り、組織が持つありとあらゆる手段を講じ、対象を追い詰める。
だがしかし、彼等には一つだけ決して手を出してはいけない存在が居た。泥濘に咲く一輪の白百合、商業区及び死者の羅列全ての寵愛を受ける者、禁断の花園に眠る存在そのものを秘匿された少女。メテリアの妹にして彼だけが愛することを許された禁忌……テフィラ。死者の羅列構成員であろうと彼女を知る者は誰一人として居らず、唯一無二の肉親であるメテリアが人間としての愛情を注ぐ少女は、電気信号模擬体としてネオンの空を自由自在に舞い踊る。
回線の海を泳ぐだけなら文句は無い。電子情報を読み漁り、強固なセキュリティで保護されている情報でもテフィラには意味を成さない防衛手段。電子の妖精と揶揄され、情報インフラの中でのみ自由を謳歌する少女の手綱は握られない。死者の羅列に属する数多の構成員を漆黒の指先で束ね、身体を埋め尽くす刺青の畏怖を以て支配するメテリアでさえも、テフィラの全てを完全に制限することは出来ず、せめて商業区だけでも彼女が生き易い世界であれと願うしかない。何故なら、テフィラには生まれつき五感の内味覚、視覚、嗅覚といった三つの感覚が欠如していた為だ。
妹を害そうとした人間は悉く始末した。商業区に多額のクレジットを落とす資産家、現状を打開する為に妹の能力を利用しようと画策する実業家、死者の羅列と好意的な関係を築いた商売人等々……彼女に見合わない者は男女問わず屑だと断じ、例えその相手が組織の利益に基づく存在であろうと存在を抹消した後事業を奪う無法。この身が罪で穢れ、悪に染まろうともメテリアはたった一人の兄としてテフィラを守る。講じる手段が人の道から外れていると知りながら、燃え上がる狂愛を焚べて。
他人から見たメテリアは人格破綻者の類に位置する狂人なのだろう。冷徹な指示を以て邪魔者を排除し、他人が積み上げた基盤を乗っ取る手段は悪意に満ちた罪の証左。弱肉強食の理が蔓延る下層街に於いて、メテリア以上に己の手を汚さずに権力を握った者は中々居ない。
銃を必要とする者が居れば、必要以上の銃を敵味方問わず供給し利益を得る。債務者がクレジットを支払えずに逃げようとしても、猟犬を差し向け身柄を確保する悪魔的な取り立て。商業区で起きた問題を、組織にとって都合の良いように処理する狡猾さ。メテリアは決して己の姿を表に出さない影。何時も誰かの足元に潜んでいるかのように錯覚する黒幕そのものだ。
真っ黒な身体……刺青に覆われた男は己が居城を歩く。灰色の鉄筋コンクリート造りの大型ビルには彼と妹だけが住み、他の階層は全てペーパーカンパニーが居を構えている。
金装飾のドアノブを握り、柔らかい絨毯を踏みしていたメテリアは暗い貌に浮かぶ、真っ白い双眼を細めて舌打ちした。黒コートのナノマシン散布機能を起動し、身体を空気に溶け込ませた男はゆっくりと扉を開け、贅を極めた一室を一望する。
異変を感じたのだ。ドアノブを握った先に感じた僅かな空気の揺れと体感温度の変化。コートの袖から毒針を取り出したメテリアは眼球をギョロギョロと蠢かせ、突如として振り下ろされた銀翼を紙一重で躱す。
「……」
「あら、よく躱せたわね。貴男は私達を追っていた雑兵と違うのね」
「当たり前じゃないイブ。彼は死者の羅列首領メテリアなんだから」
「そんなこと今関係ある? リルス」
憤怒に滾る双眼が二人の少女を睨み、その間に座るテフィラに向けられた。
「……貴様等、何故」
「此処が分かったとは言わないでくれない? その質問に意味は無いから」
リルスの細い指がテフィラの髪を優しく梳き、柔らかい頬を撫で、
「話をしましょうメテリア、これからの私達について……ね?」
少女は妖艶な笑みを浮かべる。