目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

殉教者 上

 死を恐れる性質を人間性と云うならば、死を恐れぬ人間は何と呼ぶ。


 死が恐ろしいからと生存を乞い願い、死を遠ざけたいが故に存在を望む。生物学的な死とは生命活動の停止であり、脳死に陥った人間であろうとも心臓が生きている限り生物としての死は迎えていない。だが、脳死状態の人体を生かしている生命維持装置が破損し、意思無き屍と成り果てた人間は果たして生物と云えるのだろうか。


 倫理的な解答を述べるとしたら、自我を失い、言葉を話せなくなったとしても法律は人間として扱うだろう。感情的な側面から見た場合も、家族が望む限りその者は人間だ。しかし、現実問題脳死に陥った者が回復する可能性は極端に低く、もし奇跡的に意識を取り戻した場合重篤な後遺症を引き起こす可能性も否めない。


 ならば、脳死の植物人間は法と倫理が人間と断じようが現実は屍とも云える。機械に繋がれ自我を失い、言葉を話すことも出来ず、生殺与奪権を生命装置に握られた人間……その状況から、彼等はサイボーグと変わりない。


 技術に依存し、機械に命を支えられている哀れなサイボーグ……。死を望もうともその口は固く閉じ、生を願う意思は既に枯れ果てた。呼吸をして、内臓器官を動かし、僅かに残った生理的反応を繰り返す生きる屍は、生死の境目も知らず、ただ生きている。


 この問題に完璧な答えを提示できる人間はまず居ない。生命倫理や精神倫理の観点から人間として扱う以上法律が当人を守るのだ。法律が存在しているが故に家族の選択に命の采配が委ねられ、たった一枚の紙切れが命の行く末を決める。


 生命維持装置の機能停止は生命活動の終了を意味し、機械によって生き長らえていた者の命は潰えて消える。紙切れに書かれたサインと、機械の停止は合法的な殺人行為。甘くて重い砂糖菓子に包まれた死が意味するものは、家族による死の受諾に過ぎない。


 死は万物の終わりであり、逃れられない現実である。画面の向こう側で展開される死を他人事のように見つめていても、原因と要因は音もなく忍び寄り、首元に鎌を当てる。その時になってようやく人は死を恐れ、どうにか逃れようと足掻くのだ。生きる為に最善を尽くし、死なない為の手段を講じて泥沼に沈む。藻掻きながら、底無しの奈落へ、延々と。


 死ぬのが怖い、死ぬのは嫌だ、死ぬのは認めない……。連綿と続く願望は渇望となり、人間を形作る遺伝子に死の恐怖を刻む。死を免れたいが故に凶行に至り、新たなる死を振り撒く狂気。持つ者、持たざる者……人間性を手放さない人間であればあるほど、生存を渇望する。


 しかし、死を否定しない考え方もある。肉体と云う牢獄から魂を解き放つ準備段階を死と見据え、真の自由は死を迎えた先に在るという狂った思想。死を恐れる必要は無いと講じ、逃れられない現実を直視した上で満足した死を迎える教義。無貌の教祖を頂点とした振興カルト、震え狂う神の教団は信徒の死を推し進め、救世主の降臨を待ち望む。


 死は終わりではなく、始まりである。生は檻にして殻、精神と命を縛る枷でしかない。人は満足した死を迎える為に生き、死に嘆き涙する生き物に非ず。どん詰まりの人生であるのならば死を願え、変えられない現実があるのならば死を祈れ、覆せない失敗を犯したのなら……迷わず死を選べ。その瞬間に死は貴方を始まりへ導き、苦痛に満ちた生に終焉を齎すのだ。


 震え狂っているのは貴方だけではない、神でさえも狂気に触れた哀れな者。終わりと思う故に恐れている。逃げられないが故に怖がっている。否、一人で死ぬと思っているが故に恐怖し、孤独に耐えられないが故に狂気に触れたのだ。貴方は一人に非ず……ひとりはみんなの為に死を願い、みんなは一人の為に死を祈ろう。その言葉が、救世主を呼び覚まし、塔を救済するだろう。この囚われた世界から、楽園へ至る道を指し示すのだから。


 悲哀、慟哭、叫喚、悲嘆……嘆きは悲しみを生み、悲しみは怒りを生む。怒りに満ちた心は憎しみに染まり、憎しみは更なる悲哀を呼ぶ。その連鎖は正に感情の歯車と云うに相応しく、脳から垂れ流される感情は脳より生み出される機械燃料。動き、回り、絡み合う思考の綾模様は、絶えず教祖の脳内を駆け巡る。


 この心に憎悪は無い。憎悪と呼ぶには、透き通った空のように虚ろだったから。


 この心に憤怒は無い。憤怒と呼ぶには、煮え滾るマグマのような熱を感じなかったから。


 この心に慟哭は無い。慟哭と呼ぶには、既に喉が枯れてしまっていたから。


 この心に悲嘆は無い。死を迎え入れる信者を何度も見届け、歪んだ笑みを見てきたから。


 この心には……悲哀だけが残されている。嘆き、哀れみ、悲しみ、涙を流す。教祖に出来ることは信者の背中をそっと押し、殉教者を生み出すこと。殉教者の屍は遺塵と化し、新世界の扉を開く糧となる。故に……己が出来ることは死を迎え入れる屍を積み上げ、巡礼者の道を整えることにある。


 「エイリ―、エイリ―、エイリ―……私は悲しいのだ。君が死を選ばなかったこと、まだ生にしがみついている事実に……」


 涙で濡れそぼった掌が教祖の顔から剥がれ、その顔面をエイリーに近づける。


 「死を願い、死を望み、死を渇望したまえ……エイリ―。その愚鈍な思考の先にある破滅を生きたまま味わうか、自らの意思で死を乞い願った上で受け入れるか……。エーイーリー……クリフォトの名を冠する者、巡礼者、私は君の答えを聞きたいのだ」


 緑色の薬物で満たされた小瓶がエイリ―の手に渡され、男は恐怖に濡れた双眼で教祖を見上げた。


 「……」


 既に万策尽きたと項垂れる。治安維持軍の兵隊が中層マフィアを殲滅するのは時間の問題だ。


 「……」


 戦闘装甲服に身を包んだ女が教祖の機械翼を躱し、アサルトライフルの引き金を引いている。だが、治安維持軍の一兵士が教祖に叶う筈が無い。


 緑色の小瓶を受け取り、コルク栓を抜いたエイリーは口を開け、一気に薬液を飲み込んだ。その様子を眺めていた教祖は満足そうに頷くと、


 「殉教者……君はその使命をこの時果たすことが出来る。エーイーリー……愚鈍なる者」


 モザイク調で彩られた無貌を覗かせた。


 「ヴァルプルギスの夜は来た。適応するか否か……死を受け入れ給えよ、エイリ―」


 悶え苦しむエイリ―を傍目に教祖は芝居がかった風で両腕を天へ上げる。その瞬間、倉庫の天井が爆発し、純白の強化外骨格が舞い降りる。


 「教祖様」


 「あぁ……アディ、アディシェス、君が来たのか……。用件を言い給え」


 「時間です。外は既に治安維持軍がマフィアを殲滅済み。我々も次の準備へ移るべきかと存じ上げます」


 「違う……君は全く分かっていない。此処に新たな殉教者が生まれようとしているんだ。私にはそれを見届ける義務がある。違うかい? アディ」


 「しかしながら……」


 鋼の弾丸が強化外骨格の男、アディの装甲を穿ち、傷を刻む。口の端から血を垂れ流すディアナは、フルフェイス・ヘルメットの録画機能を起動し新たな敵を記録する。


 「排除しますか?」


 「彼女は何の障害にならない。アディ、戦意を抑えて欲しい。君の感情を震わせる戦争はまだもう少し先だ。歴史の塵に埋もれ、時代の波に流され、忘却された言葉の意味を噛みしめることが君の望みだろう? アディシェス」


 「私が望む戦争を描ける人間はただ一人しか居りません。無頼漢首領……ダモクレスとの戦いこそが我が望みなのですから」


 「視野が狭いよ……アディ」


 肉体が崩壊するエイリ―を眺め、感極まった様子で涙を流す教祖は、肥大し、膨れ上がる異形へ両腕を広げるのだった。  


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?