細胞とは生物体を構成する基本的な部品であり、機能上の最小単位である。DNA及びRNA、たんぱく質、栄養素、代謝物質が含まれている細胞から全ての生物は形作られ、生きている。それは人間も例外では無い。
「殉教者は来たれり。教えに命を賭す意思は遺塵となり、我々が往く道に降り積もる。遺塵の道を……アディ、我々は全ての死を見届け、その尊ぶべき死の概念から目を逸らすべきではない」
モザイク調の無貌から涙が流れ、教祖の頬を伝って落ちる。
「エイリーは殉教者の道を歩み出したのだ。彼が人の身を失い、命という唯一無二の財産を燃やし尽くしながら死へ突き進む様は、正に私が求めた殉教者の姿そのもの……。祝福しよう、殻を打ち破ろうとするその意思を。喝采しよう、真の自由を得た君を……。エイリー、あぁ……愚鈍なる者、君は救済の糧を得た」
ドロドロに解けた肉体から白い骨が突き出し、緑色の粘液に覆われる。皮膚を生きたまま焼き焦がされる激痛と、死んだ細胞が崩壊しながら再構築される生き地獄。泡立つ粘液に覆い尽くされ、血肉をゼリー状の物質に置き換えられたエイリーは教祖へ手を伸ばす。
「助けて欲しいのかい? 君は今まさに救済の間隙に身を置いているんだエイリー……私の手は祝福に非ず。恐れるな、怖がるな、狂ってくれるなよ……ルミナの祝福を受け入れ給え。なぁ……エーイーリー」
教祖はただ微笑み、涙を流すばかり。悲哀に満ちた言葉の端々から漏れる狂気を隠そうともせず、肥大と収縮を繰り返すエイリーを言葉通り見定めていた。
崩壊する細胞による激痛に人間は耐えられない。一度経験した痛みは快楽物質へ変換されるとエイリーの脳を麻薬のように駆け巡り、真紅の世界に流れ星の如く瞬くのだ。再構築の精神的快楽、急速回復する筋繊維が再び糸を紡ぐ再生の美学、マゾヒストが感じる神経汚染……全てを巻き込む津波の後にやって来る一瞬の安らぎは楽園の果実を食む精神麻薬の一種。混沌とした脳は、思考を放棄し獣へ帰す。
恐怖という感情は脅威や圧力からくるのではない、未知によって形成されるのだ。己が知らない事象に遭遇し、それから感じた脅威を恐れる。己が知覚出来ない存在から攻撃され、心理的圧力を感じ、怖がって身を縮める。恐怖とは未知を知らぬが故に覚える感情の機微であり、自己或いは自我の揺らぎ。科学で実証されない概念はオカルトと呼ばれ、科学で実現出来ない事象は信仰を担保として宗教が成す。人間の心とは、論理と倫理の狭間に恐怖を見る。
「教祖様」
「邪魔してくれるなアディ、きっと彼は祝福に対する答えを見せてくれる。だから、もう少し時間をくれよ……アディシェス」
「ですが、他のクリフォトも貴方様の御言葉を心待ちにしております」
「それはシェリダーかい? それともアグゼリュス? カイツール、ケムダー、キムラヌート……皆は何処に?」
「皆約束の地に……エデンの園を渇望しております」
「エデン……EDENとは、到に朽ちた過去だと云うのにね」
ブクブクと膨れ上がった血肉の水風船のようなエイリーを一瞥した教祖は、アサルトライフルのマガジンを交換するディアナへ視線を向ける。
「処分しますか?」
「いいや、必要無いだろう」
「理由をお聞かせください」
「彼女は殉教者の生き証人になるべきだ。死に触れ、死を望み、死の為に生きる巡礼者を我々は求めている。それに」
「それに?」
「治安維持軍を敵に回す必要は無い」
機械翼を羽ばたかせた教祖はアディシェスから新たな被り物を受け取り、天井に空いた大穴を見上げる。
「君、治安維持軍の君」
「待てッ!!」
「死を恐れる必要は無い。人生とは常に苦難と苦痛に覆われた茨の道だ。生の終わりとは死であり、命は終焉を避けられない運命にある。だからこそ……人は満足する死を得なければならない。死は終わりではなく、魂の解放を意味するのだから」
ふざけたことを―――ッ!! アサルトライフルの銃口が火を噴き、連続した射撃音が倉庫内に響き渡る。だが、それは全てアディシェスが纏う純白の強化外骨格に弾かれ、火花を散らすだけ。
殺す。今此処で奴を殺す。獰猛な殺意がディアナの身体を駆け巡り、血を煮え滾らせる。戦闘装甲服の身体強化機能を起動し、大きく跳躍した彼女の太腿を貫いたのは教祖の機械翼でもなければ、アディシェスが持つ大口径チェーンガンでもない。
「―――ッ!?」
緑色の粘液を滴らせる矛が装甲服の強化繊維を突き破り、鮮血に濡れていた。声を上げる暇も、反撃の隙も与えられず、コンクリートの地面に叩きつけられたディアナの目に映ったモノは異形の化外。
絶えず血を滴らせる筋繊維と腕程の大きさに発達した鋭利な爪。目鼻といった人間的特徴を削ぎ落した無貌には、耳まで割けた口だけが存在しており、だらりと垂れた下はぬらぬらと唾液で照っている。
「エイリー……君はどうやら選ばれなかったみたいだね。あぁ……死を望まぬ君は祝福を呪いへ転化させ、ルミナによる加護を得られなかった背徳者。殉教者とは甚だしい……君はただの背教者故に、死は君から遠ざかる。苦痛に満ちた生を、苦難を強いられる命を、闇に呑まれた魂を……私達のエデンは認めない」
故に、君は自我を持たぬ獣に成り給え。深い溜息を吐いた教祖は黄緑色の薬液が入った小瓶をディアナへ落とし、
「君、君の苦痛は私の求める死とは程遠い玲瓏なる炎だ……。その業火は見るに耐えない狂い火にして、己をも燃やし尽くす狂乱の炎。ルミナは君を認めるか、拒絶するか……選び給えよ、治安維持軍の君」
「何を―――」
立ち上がろうとした瞬間、視界が真っ赤に染まる。フルフェイス・ヘルメットのバイザーに『セキュリティ・プロトコル実行……失敗。ファイアウォール展開……失敗。電子汚染検知、情報汚染侵攻、戦闘プログラム停止、全機能シャットダウン』と表示され、最後には『戦闘続行不可能』けたたましいアラーム音が鳴り響いた。
戦闘装甲服の機能停止……それは命に関わる重大なエラー。ヘルメットの再起動コマンドを入力するも、状態は一向に回復せず、汚染度数は上昇するばかり。
何だ、何が原因だ? 地面に叩きつけられた際に壊れたのか? いや、戦闘装甲服がその程度の衝撃で破損するはずが無い。アサルトライフルの弾丸を受け止める事が出来るのだ。必死に辺りを見回し、太腿を貫く矛に目をやったディアナは一瞬だけ息を止める。
粘液が広がっていた。患部だけではなく、装甲服全体に。電子基盤と情報装置をハッキングし、中に組み込まれているプログラムコードを改竄せしめた緑の粘液は、中層街の技術者が生み出した高性能戦闘服を僅かな時間で無効化していたのだ。
「この―――ッ!!」塞がっていた傷口から血が溢れ「ッ!!」力を入れる度に鮮血が噴き出した。
戦え、戦え、戦えッ!! 戦わなければ、銃を握らねば、立ち上がらねば己も、エデスも死ぬ!!だから、生きる為に戦え!!
重い腕を動かし、銃のグリップを握る。照準を化外に合わせ、引き金を引く。発射された弾丸は化外の筋繊維を貫くも、傷口は瞬く間に塞がり無かった事になってしまう。
恐怖の感情が芽吹き、死の影がそっと耳元で囁く。
抗えないのなら、受け入れろ。
戦っても無意味だ。
戦う事で更なる苦痛を得ることになる。
未知なる生物は……かつて人間が化け物と恐れた存在は、死の顕現者にして不条理の刃なのだから。
悲鳴を上げ、狂気に触れたディアナの視界……化外の背後に一人の男が立つ。男は身の程大の鉄塊を振り上げ、化外の脳天を叩き割ると割れたバイザーからディアナを見つめ、
「無事か? いや、愚問だな。コイツは俺が相手をする。ウルフ5……貴様は傷の手当てに集中しろ。いいな?」
エデスは静かに指示を下した。