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タイムリミット 上

 数滴の血の雫が宙を舞い、線を描いて地面に散った。戦闘装甲服が応急継戦機能を起動しエデスの戦いを支えようが、鮮血に濡れた袖口からは延々と血が垂れ落ち、彼の動きは時間が進む毎に鈍くなる。


 死へのカウントダウン……体内を駆け巡る血の一雫が体外へ排出される度に死神は嬉々として指を折り曲げ笑うのだ。砂時計の砂粒が上から下へ零れ落ちるように、エデスの左腕付け根から垂れ落ちる血の雫は有機的血時計。傷を縛り上げる人工筋肉の締め付けが彼の命をこの世に繋ぎ止め、傷を撫でる空気の針が痛みを以て死神を遠ざける。生死の境界線に立ち、刃を振るう男は粘液を焼き溶かしながら咆哮する。


 痛みを感じている……それはまだ生きていることを意味している。


 割れたバイザーに映る戦闘装甲服の状態はイエロー・ラインを裕に超え、デッド・ライン……死亡判定の位置を示している。


 少しでも戦意を削ぎ、痛みから意識を反せば瞬く間に死神は己の首を黒い鎌で刎ね飛ばす。生きていることが不思議だと首を傾げ、死のタイミングを虎視眈々と狙っている筈だ。死んだ方が生物として当然だと云わんばかりに……暗い影が左肩から覗く切断面をジッと見据えている。


 鼓膜を叩く射撃音と対峙する化外の悍ましい悲鳴、焦げた粘液の異臭、血と粉塵が入り混じる奇妙な香り。笑みの一つも零すことなく、化外の爪をエネルギー・ブレードの刃で焼き切ったエデスは化外の頭部へ視線を向ける。


 頭蓋を割り、肥大化した脳はヌメヌメとした脳液に照っていた。何度粉砕しようと再生し、黒い線虫に覆われては新たな細胞で再構築される化外の脳。いや、敵は生半可な傷ならば文字通り瞬時に再生及び修復する不死の化け物だったが、エデスは化外の身体に一つだけ変化を見出していた。


 時間に追い立てられているのは己だけではない。不死の化外であろうとも、線虫による再構築や再生の代償を何処かでを支払っている筈だ。細胞分裂の度にテロメアが短くなるように、老いる毎に筋肉や関節が凝り固まるように、身体的変化は必ず身体の何処かに現れる。


 化外の猛攻を耐え凌ぎ、通常の三倍程度膨れ上がった脳を凝視したエデスは「ウルフ5! 脳を狙え!」と叫ぶ。


 後方で照準器を覗き込んでいたディアナが銃口を化外の脳へ向け、引き金を引く。急所か否か、身の危険を感じ取った化外は鋭い金切り声を倉庫に響かせ、粘液に濡れた矛を形成する。


 「させるかよッ!!」矛を真っ二つに斬り裂いたエデスの目が化外を捉え「死ぬのは貴様だけで十分だッ!!」剥き出しの筋繊維に覆われた腕を一太刀で焼き落とす。


 変化とは良いも悪いも飲み込み千切る大海の渦だ。一切の慈悲も無く船を砕き、人や魚を海底へ引き摺り込む渦の先には永久不変の墓標がある。水底に存在する概念が不変と呼ぶべき代物であるのならば、渦を乗り切り海面或いは海中へ回帰した存在は変化の渦を経験したモノと見るべきだろう。化外が渦に飲み込まれているのか、自分達が振り回されているのか、それはエデスにも理解し得ない概念的事象。


 だが、変化は戦況を左右する重大な局面にだけ現れることを彼は知っている。神のみぞ知る世界とは良く言ったもの。幸運の女神には後ろ髪が無いように、戦いの結末を変える一手を……敵の変化を叩くべきと判断したエデスの経験は間違いでは無かった。


 炸裂する火薬が弾丸を弾き飛ばし、鋼の弾丸が脳を突き破る。夥しい程の鮮血が銃弾を打ち込まれた箇所から噴き出し、辺り一面濃い血の臭いで包まれる。


 戦闘に特化した鋭利な爪が脳内で蠢く弾丸を掘り起こそうと肉を抉って自傷行為へ奔らせた。狂ったように、再生と再構築を繰り返す化外は耐え難い激痛に身を捩らせ、終わりの無い不快感から逃れる為にその場で転がり回る。


 哀れとでも言えばいいのだろうか、それとも脅威を排除出来たと安堵するべきだろうか。疲労の限界を迎え、強張った指からエネルギー・ブレードを手放したエデスは化外を視線に居れたまま後退する。


 「課長ッ!!」


 「まだ来るな!」


 「———ッ!!」


 「まだ奴は生きている……死んじゃいない。死んでいないのなら……もっと、何か、別の」


 嫌な予感がする。蟲が背中を這いずり回る厭な不快感。安堵というよりも、次の脅威に身構える為に一息吐いていた己が居ることにエデスが気付く。


 傷を負う度に肥大化する脳味噌から緑色の粘液が溢れ出す。粘液は赤黒く変色すると同時に化外の身体を隙間なく包み隠し、人間大の繭を形作る。


 「……げろ」


 「課長?」


 「撤退だ」


 「え?」


 「全隊員に告ぐ!! 至急撤退準備に———」


 瞬間、強烈な爆風が二人を弾き飛ばし倉庫の壁へ叩き付けた。


 「———ッ!!」


 生物的防衛反応か兵士としての反射的行動か。咄嗟にディアナの身体を抱え、鉄コンテナの影に身を隠したエデスは木っ端微塵に粉砕される壁を見る。


 何が起こった? 既に藻掻き苦しむ化外の声は聞こえない。


 化外はどうなった? 薪が爆ぜる音がエデスの鼓膜を叩く。


 どうして……こんなに暑いんだ? 大地を震わせる音が倉庫内に木霊し、エデスの額に汗が滲む。


 状況を、敵の状態を———。獣の咆哮が聞こえた矢先にコンテナが焼き溶かされ、異変に気付いたエデスはディアナを担ぎ、走り出す。


 「———」


 燃え盛る巨躯と漆黒の鋼鉄肌。アヒルを連想させる両足には熱波を放出する放射機関が備え付けられており、獅子の尻尾のような尾からは赫々とした超高熱ブレードが揺らいでいる。


 人智を超えた異形の巨獣、蠅の頭をそのまま頭部へ移植した異貌、人の殻を脱ぎ捨てた化け物……。人間から化外を経て、完全な獣と成り果てたエイリーの姿を視界に入れたエデスは非現実的な光景に驚愕する。


 戦え、戦え、戦え……。残った手札を確認し、有効な手段を手繰り寄せろ。どんな手でも構わない。諦めるな……生き残る為に戦うんだ。


 「ウルフ5!」


 「……」


 「まだ諦めるには早い。手段を、出来る限りの手を考えろ。恐れるな、絶対に俺達は」


 肩に滴る血の雫……だらりと力無く腕を下ろしたディアナの頭から鮮血が流れ出していた。壁に激突した際に何処か頭を切ったのだろうか? いや、今はそんなことを悠長に考えている暇は無い。奥歯を噛み締め、倉庫の端へ駆け出したエデスはコンテナの影にディアナを寝かせ、アサルトライフルのグリップを握る。


 己がどうなっても構わない。だが、部下だけは生かして帰す。部隊の強化外骨格部隊が倉庫に到着するまで時間を稼ぐ。それが己の責務であり、義務だ。


 しかし、どうやって獣と戦う。鋼の表皮に弾丸が通る筈がない。それに、獣は片腕にガトリング砲を装備しているのだ。幾ら戦闘装甲服であろうとも、大口径ガトリング弾を真正面から受け止めれば致命傷は避けられない。


 逡巡する思考の中、覚悟を決めたようにコンテナの影から飛び出したエデスはアサルトライフルの引き金を引きながら獣と距離を縮め、ブレードの炎刃を紙一重で回避する。赫熱したブレードの刃は容易にコンクリートの地面を融解させる超高熱兵器。その熱は彼の頬の皮膚を焦がし、爛れさせ、軽度の火傷を負わせた。


 「———ッ!!」


 止まるな、走れ。


 「こっちだッ」


 引き金を引き続けろ、弾丸を放て。


 「俺を見ろッ!! 化け物ッ!!」


 それが、己の役目であり、兵士としての役割なのだから。


 熱放射機関が熱波を放ち、戦闘装甲服が熱暴走に陥った。応急継戦機能の一部がダウンする。ガクリと膝が折れ、地面に転がったエデスを獣が見下ろした。


 此処までか? いや、まだだ。まだ、戦える。震える膝を叩き、立ち上がろうとするエデスへ獣のブレードが振り下ろされ、目を瞑った瞬間、


 「エデスッ!!」


 鋼の表皮に身を包んだ一人の青年が獣のアキレス腱を叩き斬り、


 「生きてるのなら返事をしろ!!」


 ドス黒い瞳をエデスへ向けた。




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