この門を潜る者よ、この先一切の希望を捨てよ。これはダンテ・アリギエーリが綴った神曲地獄編第三歌に登場する地獄の紹介文である。
我を過ぐのであれば、憂いの都あり。
我を過ぐのであれば、永遠の苦患あり。
我を過ぐのであれば、滅亡の民あり。
義は尊き我等が造り主を動かし、聖なる威力、比類なき智彗第一の愛造りれり。
永遠の物ほかの物として我より先に造られしは無し、しかして我は永遠に立つ。
汝らこの門より先に入る者、一切の希望を捨てよ。
憂いの都に生きる者は悲哀に耽り、永遠の苦しみを患う者は絶望に浸る。滅亡の民として生きる者は如何なる苦役に従属し、痛みによる罪業を洗い清めん。さすれば創造主は三位一体の御力によって汝の愛に報いるだろう。
力に対抗するは更なる力であり、罪を裁くのは更なる罪。二元論的思考とされる悪を討つ善とは現実に非ず、悪を討つのは個人の主義思想。究極的なエゴこそが他者の思想を打ち破る矛となり、信仰を破壊する爆薬。苦境を脱し、苦痛を遠ざける術は己にだけ宿る精神という神に違いない。
体内を循環する血が燃えるように熱かった。血管を焼き焦がしながら進む血が細胞という細胞全てを焼き尽くし、神経を鋭利な刃で斬り裂く感覚を覚えた。
変異とは遺伝子情報が何らかの要因で変化すること。体内に注入されたルミナがダナンの遺伝子を書き換え、組み替える動作を生物学的知見から言えば、それは変異と相違ない。
変質とは性質或いは物体が変化すること。書き換えられた細胞が無限のテロメアを得て、ルミナの蟲というナノマシンで細胞ごと組み替えられる現象は正しく変質と呼ばれる現象だ。
進化とは言い難く、退化とも呼べない身体的変化。細胞の一片まで瞬間的な破壊と再構築を繰り返し、穴という穴から血を噴出したダナンは狂犬病を患った獣のように吠え狂い、地面に頭を叩きつけては古い血を体外へ排出する。
「ダナン……お願い、此処から先は貴男に掛かってる。だから耐えて……ダナン」
グルグルと回る視界と脳に流れ込んでくる言葉の羅列。デジタル化された文章を直接脳細胞に叩き込まれる違和感に頭を押さえ、文字の濁流に精神を掻き乱されたダナンの脳裏に見覚えの無い光景が映った。
幾本もの試験管と砕けた硝子。堕胎された胎児の山。うず高く積まれた人間だった何か。鼓膜を震わせる叫喚と廃棄炉へ投げ込まれる赤子の鳴き声。分解液をぼんやりと眺める老人は、蛸を思わせる機械義肢を操り安楽椅子に腰かける。
この世界には何も無い。
残されたモノは傷ついた大地と戦争によって穢された空だけだ。
何も無ければ、種を育む土地も無し。種が実らねば芽吹きは失われ、樹は絶滅を免れない。
植物も畜生も人間も変わらない。命という枷がある故に定めがあり、喰らい合う。喰らい合った末に待つ終わりが生命の終焉だと何故分からん。
人が創りし都が憂いの都ならば、自然が撒く病理こそが苦患。二足歩行の畜生は滅亡の民として大地を崩し、星の命を断ったのだ。故に……人間は地球の癌細胞にして全ての病巣。不完全で不安定……安定を欲しない貪欲なる獣也。
重々しい機械音を響かせ、ドス黒い瞳で培養管を覗き込んだ老人は硝子の向こう側に存在するダナンを見つめ、
この世界には……希望だけがないのだよ、我が子等よ。
そう、呟いた。
「―――ネーム、レス」
何故己がその言葉を呟いたのか分からない。だが、理解出来ない憤怒が血と共に溢れ出し、熱く滾る血潮が憎悪となって垂れ流れていく感覚だけは分かる。
命を断たねば生きていけず、命を喰らわねば腹を満たせない。命と命が喰らい合い、殺し合いを続ける生は妖生と云っても過言ではない畜生道。生物とは……この世に生きる全ての命は皆地獄に堕ちた亡者の群れ。成れ果てに近い朽ちた者。
人間が生きているから苦しみが生まれ、人間が存在しているから痛みが続く。痛みは災禍を呼び、争いの火種を燻ぶらせ、一気に燃え上がる。風に吹かれる枯れ穂畑のように、乾いた風に揺られて煤となる。
「―――」
憎しみに視界が燃える。
「―――」
憤怒の炎に思考が焼かれ、正しい判断が失われる。
「―――」
荒れ狂う狂気に身を任せ、激痛の海に沈んだまま何もかもを破壊してしまいたい。己を縛り付ける苦痛、理不尽な世界、混沌に濡れる雑多な人……火の粉を燻ぶらせる巨獣。盛大に血を吐き出し、その血に宿るルミナへ意識を向けたダナンは狂ったように笑い転げ、一つの答え……確信へ至る。
血に宿るルミナはナノマシンの集合体。機械の群体が蠢いているということは、宿主たる己の意のままに出来る筈。
出来るなら……やれるのなら……やるべきだッ!! 尖った犬歯を剥き出しにして、ドス黒い瞳に真紅を揺らめかせたダナンが血を握る。液体が半固体へ、半固体が固体へ移り変わり鮮血の槍を形成すると、青年はそれを掴みエーイーリーを見据える。
殺す、立ち塞がる障害を破壊し、全てを殺す。餓鬼の我が儘のように力を振るい、敵を叩き潰して殲滅しろ。敵がルミナを……己が持つナノマシンの劣化版を体内に組み込んでいるのなら、それを支配しろ。ゲタゲタと笑い、足を砕きながら飛び上がったダナンは巨獣の額に槍を突き刺し頭蓋を穿つ。
劣化ルミナ・エーイーリー……失敗作にして廃棄される筈だった過去の遺物。この世界に存在していてはならない異物。頭蓋を穿ち、脳を切り拓いたダナンは狂笑を浮かべたまま凶刃を振るい、灼熱の業火に身を焼かれる。
何故抵抗する? それは無意味で無価値な稚児の如き抵抗だ。創造主は貴様の生存を認めていないし、貴様等は計画から外された塵芥。塵滓程度の存在が命に縋るな、生を貪るな、貴様に許される行為は死を願うこと。理解出来ぬなら、分からぬのなら、死んで記憶しろ。死を忘れぬのなら……他のクリフォトに伝えるがいい。
我は生還せり―――接続が完了したと。
ゲラゲラと笑い、血に濡れる。理解不能な言語が脳内で反響し、個我を蝕み自我を塗り潰す。自分のものだけではない憎悪が溢れ、消せない憤怒が止まらない。悪鬼のようにエーイーリーを蹂躙し、どれだけ身を焼かれようと瞬時に再生するダナンの姿は悪魔の人間の皮を被った人外のそれ。徐々に身体を人から遠ざけ、四肢を獣の形に変えるダナンはエーイーリーの目玉を繰り抜き、鋭く太い爪牙で握り潰した。
「―――あぁ」
這いずる肉片を踏み潰し、ギョロリと蠢くダナンの双眼がイブを映す。
「お前……いや、貴様は……イブか」
「……」
「カナンはどうした。貴様と一緒ではなかったのか?」
聞いた事も無い低く皺枯れた声。
「あぁ答えなくても結構。ネフティス……この個体と私の同期をしろ。黒鋼零式の接続も問題無いようだな……イブ、何を呆けている。計画を続けるぞ」
「……ネームレス」
一閃、銀の閃光がダナン……否、ダナンの形をした何者かの首を斬り裂き、血に濡れる。
「……貴様、血迷ったのか?」
「……」
「私に武器を向ける意味を理解していない……違うな、貴様は十分に理解している筈だ。計画の進行を何よりも願い、やり直しを祈って来た貴様と私が争う必要は無い。まさかこの個体……ただの肉塊、容れ物に同情でもしたのか? 貴様が?」
「……貴男からして見れば非合理的で、馬鹿げているわよね」
「あぁ」
「それは」
私もよ。そう言ったイブは、ネームレスへ刃を向けて地面を蹴った。