縦横無尽に飛び交う銀翼とそれを迎撃する真紅の爪牙。幾重にも重なる火花を散らし、甲高い金属音を響かせたイブは人の身を捨てたネームレスを睨む。
彼と戦うなど馬鹿げている。刃を交える必要も無いし、敵意を交わす意味も無い。血迷ったのかと問われれば頷き、非効率的で非合理的だと評価されても文句を言える筈が無い。
計画を最短で成すのならばネームレスの言葉に従った方が効率的だ。塔の下層で無意味な日々を過ごすよりも、塔に生きる人間と関係を築くよりも、真っ直ぐ上層へ向かい玉座に座す偽神を討てば問題の大半が片付く筈。計画の成就……既にこの世を去った父母と仲間達の願いを叶え、どん詰まりの明日を切り拓く祈りが己には在る。
だが……振り下ろされた爪を弾き、牙で挟まれた銀翼から紫電を奔らせたイブは思う。
この世界には絶望だけが在り、希望だけが失せていた。それは彼女自身も嫌という程に理解している概念で、下層街の人間に植え付けられた不変の思い。絶望を見続けた故に死が普遍の日常と化し、希望を掴めなかったが故に力で力を圧殺する弱肉強食の理が生まれたのだろう。
楽園へ至る道を辿り、地獄など無かったことにして明日を生きる。全ての罪を過去に埋め、悪として生きなければならなかった命をも救済する理想。イブに託された切なる願いと叶えなければならなかった誰かの祈り……EDEN計画を実行すれば世界が変わり、数多の命が救われる。少女はその計画の為に生き、計画に反した妹の殺害を企てながら二百余年という長い月日を歩んで来た。
しかし、自分の事ながら疑問を抱かずにいられない。協力者である筈のネームレスへ敵意を向ける矛盾に。彼の絶対的な力を知っておきながら手を握らず、変容した姿の向こう側に存在するダナンを求める心に困惑する自分が居ることにイブは気付かない。
ダナンと共に過ごした時間は長くない。一年未満……いや、一ヶ月にも満たない期間で他人に心を許す筈がない。無愛想で偏屈屋、冷酷な選択肢を常に念頭に置く冷血漢、生き残る為に命を奪い続ける凍った血の青年……そんな男を助ける為に己は効率性を捨てている。そんな自分を幼い自分が見つめ、深い溜息を吐く。
私はそんなに温かい人間じゃない筈だ。
私にはみんなの願いが託されていて、捨てられない祈りがある。
それを捨ててまで彼を助ける意味があるの? もし彼を助けてNPCとしての素質を潰せば希望は潰えてしまう。個人のエゴで全てを手遅れにするつもり? もうこれ以上のミスは、遅れは許されない。貴女も分かっている筈よ? ねえ……イブ。だから、
銀の翼が紫電を纏いながらネームレスの胴体を斬り裂き、鮮血に濡れる。ぬらりと照った血が塵となり、獣と成り果てたネームレスの傷口に吸収された。
「……ネームレス」
「何だ」
「時間は……もう残されていないの?」
「ネフティスとの同期が完了しなければ分からん。だが、イレギュラー要素が多すぎる。正確な時間は聞くだけ無駄だ」
「……」
「イブ」
ドス黒い瞳が少女を見つめ、戦う為に発達した大きな手が彼女の頭に添えられる。
「これは既に決まっていた事……既定路線という奴だ。この個体は私の容れ物に過ぎず、ダナンという存在など個我を持たず、自我の芽生えも本来許されなかった一個体なのだ。故に、貴様が個体の為に感情を優先させる道理は無し。理解したか? イブ」
「……」
頭では分かっている。
「……」
ネームレスの言うことは正しくて、
「……」
それが最も己の為になる言葉。
「ッ!!」
銀の閃光が彼の腕を斬り落とし、歯を食い縛ったイブの唇から血が流れた。
「……そうか、それが貴様の答えか。イブ」
「何時も……何時だって貴男は私達の方を見てくれて、色々なことを教えてくれた。ネームレス……貴男には感謝してもしきれない恩があるッ」
頼まれたのだ、ダナンのことを。見ていて欲しいと、裏切らないでいて欲しいと、セーラの願いがイブの脳裏を過る。
こんな絶望的な世界でも、希望の種が風化した社会でも、みんな生きている。ネームレスの意思にダナンが塗り潰されることは許されない。死に逝く者の頼みなど、生者にとって足枷にしかならない事も十二分に理解している。だが、このままダナンが消える事自体が、彼を愛そうとする者達への裏切りであり、自分への嘘であることにイブは気付く。
「ネームレス……ごめんなさい、私は彼が必要なの。私の為に、彼を必要とする誰かの為に力を貸して。我が儘だと思ってくれてもいい、馬鹿者と罵ってくれても構わない、彼が……ダナンが明日を生きる為に、運命と戦える為の力を貸して! お願い……ネームレス」
「……イブ」
「……」
「私はな、別に世界がどうなろうと、人類が絶滅しようと知った事では無いのだ。私の願いはただ一つ……過去と変わらぬたった一つの祈り。貴様等姉妹が自分の手で明日を選び取れる世界になればいい。この世の全てが貴様の敵になろうと、世界が貴様等を不必要と断じようと、私は貴様の味方だ。今も昔もこれからも……ずっとな」
クツクツと笑ったネームレスが飛び散った肉片を一瞥し、イブに問う。
「劣化ルミナ・エーイーリー……いや、正式名称は2i,Iwelethだったか。アレの倒し方は分かるな?」
「……えぇ」
「個体の肉体に注入したルミナの総量は貴様が持つルミナの半分。まぁ、この状態で敗けるワケが無いと思うが……助言を与えよう。二百年ぶりのな」
「お願い、ネームレス……ううん、先生」
「懐かしい呼び方をするな我が教え子。この施設の真下に知恵の果実……クリファ抑制管理機構が在る。NPC……貴様がダナンと呼ぶ個体の遺伝子情報、ネフティスによる情報接続、貴様の生体認証があればアクセスは可能。鎮圧して廃棄するも、力に変えて行使するも貴様等が選べ。いいな?」
「うん、ありがとう」
「……しかし」
「どうしたの? ネームレス先生」
「貴様が家族以外の誰かを求めるとは意外だと思った。以前の貴様ならば父母の仲間であろうと最後まで心を開かなかったのにな」
「……それは、どうしてか私にも分からないわ。貴男には分かるの?」
「私に聞くなよイブ。だが……一重に言うなればそれは人間の致命的エラーにして、捨てられぬOSの誤作動なのやもしれん。人間を形作り、人格と自我を同期させるシステムの一つ……感情の発露。端的に言えば心なのだよ、イブ」
優しく、壊れ物を扱うようにイブの銀髪を梳いたネームレスが柔らかい笑みを浮かべ、
「効率性や合理性は機械を動かす手法に過ぎん。機械とはプログラムに従属し、使い手が入力したコマンドを実行する鋼の生命だ。冷たく、固く、言われたことしか出来ない存在は変化と不変を同時に熟し、指示されるまで動かない。
イブよ、貴様は決して機械には成れぬ血が通った人間だ。人間ならば考えに縛られず、心に従え。それが悪手でも、最善の行動でも、動かねば未来は変わらない」
「……私は」
「恐れるな、明日への歩みを。慣れるな、停滞に。受け入れろ、明日の出来事を。……話が長くなったが、これが私からの助言だ。進むも止まるも貴様次第……乗り越えて見せろ、絶望を」
巨獣の姿を取り戻したエーイーリーを睨み、人の身体へ戻りつつあるネームレスは地面に拳を突き立て崩壊を引き起こす。
「ネームレス!」
「ネフティスよ」
『はい』
「個体とのルミナ融合率を引き上げろ。黒鋼零式の機能解放及び、コード・オニムスの最適化を急げ。後は任せたぞ? 仮想の死者よ」
『……了解。お休みなさい、創り主』
「……あぁ」
そう短い言葉を交わし、闇の底へ堕ちるネームレスは瞼を閉じると肉体の所有権をダナンへ明け渡すのだった。