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君の為、誰の為 中

 「……」


 焼け爛れた肌を修復するイブの双眼が、装甲を変形させるダナンを映す。


 「……セフィロト・カウンター、ネームレス……完成させていたの? 不必要だと言っていたのに……」


 生命の樹の名を冠するルミナ・アップデート・プログラム……セフィロト・カウンター。クリフォト・システムによって製造された劣化ルミナを抑制し、クリファ汚染に晒された使用者の鎮圧及び殲滅の為に構築された特殊制圧プロトコルは、イブの記憶では未完成の対抗兵装だった。


 劣化ルミナを人工的に細胞内へ組み込まれ、遺伝子変異を引き起こした者に命は無い。短期延命措置を施された兵士は一時の安定期の内に任務を熟し、暴走期を経て崩壊期へ至る。崩壊期から生き残れる確率は無し、奇跡が起こり崩壊を免れたとしても、その先に在るのは避けられない死……クリファ汚染による生物としての終焉である。


 クリフォト・システム———管理番号2i,Iweleth・Deterioratus Lumina……。完成されたルミナの劣化版、極地電子情報戦特化型ナノマシン群。細胞の隙間を縫うように駆け、細胞核に含まれる遺伝子さえも組み替える人為的な変異は重篤な機械汚染を引き起こし、細胞寿命を削り取る邪悪な種子。心臓に根を張り、人という生物を戦争兵器に変える現象をクリファ汚染と呼ぶが故に劣化ルミナは邪悪の樹の名を冠す。


 クリファ汚染に晒された人間を救う術は無い。戦争の為に消費される命と、作戦によって救われる数多の命を天秤に掛けた時、執政者が選び取った選択は大多数の命だった。数十人の命で万の命が助かるのならば、人の為に命を捧げる覚悟を持った兵士は重い首を縦に振るだろう。肉体が崩壊し、荒れ果てた戦場で風化する運命が待っていたとしても……彼等は己が使命を全うした。それ以外に方法が無かったから。


 だが……それでも尚生きていたいと願った。生きて家族の元へ帰り、愛する者を腕に抱きしめたいと祈った。決定的な死が待っていようとも、滅茶苦茶に掻き乱された遺伝子が汚染されていようとも、兵士は人として生きたかったのだ。崩れる指で地面を掻き毟り、壊れた足を引き摺り、風に消えながら……必死で。


 クリファ抑制管理機構……通称生命の樹。幾本にも伸びる鋼の根を天井に張り巡らせ、現存或いは新たに生産された劣化ルミナのクリフォト反応を観測する機械の大樹は、クリファと対を成すセフィラをルミナに組み込む大規模アップグレード機構だ。名も無き者として生き、幾千億の命を奪いながら億万の命を無意識に救った鬼才ネームレスが建造した叡智の機械は、二百余年の時を経て尚稼働し続け、彼自身が生み出した邪悪に対抗する生命を生む。


 『クリファ抑制管理機構……コクマー・ラツィエルとダナンの体内ルミナの接続が完了しました。アップデート・プログラム及び黒鋼零式の追加武装の構築完了。管理者イブ……承認を願います』


 「……彼は、本当にそれを望んでいると思う? ネフティス」


 『私は貴女方の戦闘を支援するAIです。私の役割は戦闘支援と最適な武装の展開、不足している思考リソースの補助、私を構築した創り主が残した機構設備とのルミナ・ネットワークの共有化。選ぶのは貴女方人間であり、生者なのです』


 「私は」


 『公開しているのですか?』


 「……」


 『管理者イブ……迷いは選択を見誤り、葛藤は決断を遮るベールのようなものです。私はプログラムの集合体であり、心が下す判断を理解出来ません。合理性よりも非合理性を優先する思考、効率を蔑ろにする本能……憂う意味も、悲哀に沈む理由も、私には理解出来ないのです。管理者イブ』


 己がダナンを戦いの道に……血みどろの底なし沼に引き摺り込んだのは確かだ。最初に出会った時、カナンとカァスの戦いで見殺しにしていればこんな迷いを抱く必要は無かった。ルミナを与えずに死に逝く彼を眺めていれば、心の棘に喘ぐ理由も無かった筈。


 しかし、己は救いの手を……命を拾い上げる選択をしてしまった。ルミナを与え、命を繋いでしまったのだ。計画の事を考えればそれは間違いでもないし、必要なことだったと今ではそう判断出来る。だが、それ故にダナンは不必要な苦しみを抱えた。


 冷徹であれば己が心は救われた。冷血であれば他者の苦しみに無頓着でいられた。冷酷であれば心を配る必要も無く、淡々と事を進めることが出来た。


 「……ずっと、一人だった」


 『……』


 「父さんと母さんも、みんな居なくなって、カナンも私を殺そうとしていた。周りがみんな敵に見えて、殺さなきゃ生きていけなかった……。二百年……いえ、私がコールド・カプセルから目を覚ましてから……仲間なんて誰一人として居なかった。ネフティス……私は、彼を利用しているだけなの」


 恐ろしいのだ……裏切られることが。愛する妹から刃を向けられた時のように、彼女に付き従う男が殺意を滾らせながら獣へと変貌する瞬間が、イブの脳裏から離れない。


 虚勢を張り続けなければ死んでしまう。己の手に残った使命を抱き続けなければ、生きる意味を失ってしまう。荒れ果てた世界をやり直せる希望がなければ……心がポッキリと折れてしまう。だから一人で居た方が楽だと思った。孤独を胸に、痛みを噛み締めていれば強くなれると信じていたから。


 『……情がある故に人間は数多の生物の頂点に立つ事が出来たのでしょう』


 「……」


 『魚類は水がなければ生きていけず、草食動物は荒野では生きていけません。肉食動物もまた餌となる草食動物が存在しなければ生きていけず、虫も草木が無ければ生きられません。人間とは脅威を排除することに長け、殺すという行為に意味を見出した稀有な生物です』


 「……なに? 説教のつもり?」


 『存在論の個人的な見解です。イブ、人間が叡智を手にしていたとしても、その力を行使するのは脳と肉体なのです。殺す意味を知る故に人間は戦争という行為に欲望を映し、種の数を激減させました。しかし、殺すばかりが人間ではありません。人間という生物は、人にして生物に非ずと私は解釈します』


 兵器を作り出す叡智を誇り、虐殺の為に動く人間は生物の範疇を超えた異端。自然界の法則に逆らい続け、種の存続と滅亡を画策する行動思考は矛盾に満ちた螺旋で、それはさながら狂った塩基配列が織り成す歪んだ遺伝子構造だとも捉えられる。


 「生きてる価値も無いって言いたいの? 馬鹿にしないで、人間は」


 『そう、人と人間は別種で言い表せるのです』


 「……どういう意味?」


 『人間は殺しに意味を見出し、己が種を激減させた愚者ですが人は違う。情がある故に人が在り、人が在る故に意思は紡がれる。管理者イブ……私からして見れば、今の貴女は実に人らしい。己が行為に思い悩み、他者の言葉に揺れ動く様は機械には存在し得ない色鮮やかな感情です。どれだけ貴女が自分を隠そうが、その言葉に泥を塗ろうが、ダナンは貴女を理解したいと思うでしょう。彼もまた……人なのですから』


 人間は一人でも生きられる。衣食住さえ揃っていれば、どんな環境にも適応できる存在が人間という生物だ。


 だが、それではただ生きているだけなのだ。生命活動を繋ぎ、命を紡いでいくだけならば野生動物でもできること。人が人として生き、その軌跡を残す為に得たものが情……すなわち心である。


 『管理者イブ、決断と選択を。その手にある光を掴むのは……誰でもない貴女だけなのだから』


 「……ネフティス」


 『はい』


 「セフィロト・カウンター……コード・コクマーに私のルミナを接続して。管理者イブ及びNPC……いいえ、ダナンの遺伝子コード権限により、劣化ルミナ・エーイーリーの完全掌握を開始するわ」


 『了解、セフィロト・カウンター全開。ご武運を』


 そして、少女は銀翼を広げるとダナンの隣に飛び立った。


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