荒い息を吐き、生温く湿った空気が溜まったガスマスクを外したステラは拳銃を両手で強く握り、臓物が張り付いたコンテナの影からそっと倉庫街の大通りを見渡した。
圧倒的な暴力が死の竜巻を起こして通り過ぎていった……倉庫街に漂う不気味な沈黙を五感を通して感じ取った少女は、肌を刺す緊張感に喉を鳴らす。四肢を断ち斬られた死体と真っ黒焦げの焼死体、頭を強大な力で握り潰され、首から下が無傷のままで放置されている奇妙な死体……。まるで死体の博覧会にでも迷い込んだような、現実離れした光景にステラは知らず知らずの内に息を止めていた。
危険を察知して立ち止まる……それは生物が取る防衛反応の一端だ。想像を絶する死が視界を埋め尽くし、濃い死臭に嗅覚が過敏に反応する。脳の思考回路が精神的ショートを引き起こす。身体を強張らせ、グルグルと回る視界に吐き気を覚えたステラの口から、半透明なゼリーが溢れ出す。
吐いてはいけない。吐くのは仕事を終わらせた後だ。苦い胃液を必死になって飲み込み、タクティカル・グローブで口を拭ったステラは、凄惨な光景に嘔吐する少年少女達を一瞥すると「行くよ、付いて来て」血の池へ歩を進める。
「ステラちゃん……」
「……」
「ダナンさんと、あの子は」
「大丈夫」
「……」
「あの二人は私よりもずっと強いから、大丈夫。生きて帰って来る。絶対に」
粘ついた血がブーツの靴底に染み込み、真っ赤な足跡を残した。
自分はまだいい……ブーツを履いているから。だが、後ろを歩くサテラ達はみんな素足のまま歩いている。冷たくなってしまった血は冷凍されていないゼリーのように柔く、滑りやすい。疲労が溜まり、足取りも重い少年少女は血を液体の足枷だと思っていることだろう。
「下層街には」
「……」
「色々……酷い事が起こってるって聞いたの」
「……酷いこと」
「えぇ、人殺しとか……強盗だとか、本当に色々。ステラちゃん、こんな光景は……貴女達下層民にとって当たり前な事なの?」
「……」
下層街の路地裏では毎日人が死に、殺されている。蛆が湧いた腐乱死体に臓器を抜き取られた子供の死体、身体を切り売りして生きる弱者、弱肉賞という無法を盾に好き勝手に暴れる強者達。サテラの言う酷い事は下層街の常識であり、誰もが疑問を抱かない普通の事。
暫し口を閉ざし、爪先で転がっていた頭を蹴飛ばしたステラは「この惨状を見て分かんない? サテラ」
「……」
「人殺しなんて当たり前、麻薬中毒者の錯乱も日常の一コマで、無理矢理犯されることもアンタから見れば異常でしょ? レイプされたことある? 無いでしょ? そうよね、綺麗だもん……アンタの肌は」
自分の痩せ細った身体とサテラを見比べ、重い溜息を吐いたステラは頭を振るう。
彼女に当たっても仕方ない。中層街の事も何も知らず、下層街で生まれ育った自分から何か言える筈が無い。自分だってダナンに助けて貰う前……ステラという名前を貰う前は下層街の人間として生きて来た。だから……こんな事を言ってもただの戯言に過ぎない。
「何時も鼠のように隠れて、怯えて、震えながら暮らしていた人間の気持ちが分かる? 分からないでしょ? お腹が減って死体の蛆を食べた経験は? 生きる為に死体から内蔵を抜き取ったことはある? どうして下層街に来たのか知らないけど……アンタは間違っていたってことは確かじゃない。違う?」
「……」
「殺されたくなくても、死にたくなくても、下層街じゃ人の命は銃弾よりも軽い。撃ち殺された人間の内臓の方が価値があるの。女子供は歓楽区に売り飛ばされて、死ぬまで身体を売らされる。中層街もそうなの? 違うか……殴られたくらいで泣いてるんだもの」
我慢しようとしても言葉が感情を纏い、洪水のように流れ出す。痛みを知っているが故に無知を憎み、知ろうとする意思を叩き潰そうとしてしまう。
殴られても生きているなら上等だ。警告も無しに撃ち殺され、麻薬を買う金になるよりもマシ。全身機械体の脅威に晒され、男の性欲の捌け口にされるよりも。
「中層街じゃ」
「……」
「貴女のような子はいないわ」
「あっそ、なら」
「だから、私達は……下層街の人を助けたかったの」
「……はぁ?」
「みんな生きている人間じゃない。無法に生きる獣に成り果てるより、法で生きる人間の法がよっぽどマシ。そうじゃない? ステラちゃん」
「無理よ」
「けど、諦めなければ理想は」
「無理って言ってるでしょッ!」
「……」
「今更そんな事を受け入れられる人間がどれだけ居ると思ってるの!? 子供だって簡単に人を殺すし、下層街の三首領の存在をアンタは知らないわ!! ……夢なんて見ても、希望を持っても、無惨に砕け散るのは……もう沢山よ」
銃口をサテラへ向けるなんて真似はしない。人を殺すな……それがダナンとの約束だから。心の内から沸き上がる暴力性を更に奥へ押し込めるように、殺してしまえば簡単だという下層街の教えを言葉と共に吐き出したステラは、周囲を漂う銀翼へ視線を向ける。
「……別に、綺麗になりたいワケじゃなかった」
「えぇ……」
「アタシはステラとして……今の家族と一緒に生きていきたい。ダナンが居て、イブが皮肉を吐いて、リルスがみんなを纏めてくれる……そんな日常が続けば、それだけで満足なの。けど、下層街じゃ、そんなのは何時壊れるか分かんない。今の生活は……アタシにとって軌跡なのよ」
「なら、私の言ってることも分かる筈よね?」
「……」
「大切な何かを失いたくないから、握り続けていたいから、人は人として在るべきなの。ステラちゃんが今の家族を大切に思ってるように、下層街の誰かもまた何かを大切にしている。それを守る為に……其処に在り続ける為に人には法が必要で、獣になってはいけない。私は……そう思うな」
「……そんなの、ただの理想じゃない」
「理想を抱かない人間は居ないわ、ステラちゃん」
「知らない、そんなこと」
「なら……探してみて、貴女の理想を。夢を」
「……五月蠅い」
滲む視界を拭い、倉庫街の入口まで歩を進めたステラは上空を疾走する銀の閃光を見る。
鋼鉄板で覆われた空に星が流れる筈が無い。もしアレが流れ星だとしたならば……偽物でも構わない。この願いを叶えて欲しい……ダナンとイブが、無事で戻って来られるように。生きているように……。
「……」
星が急降下し、どんどん近づいて来る。閃光はやがて人型となり、少女の姿に変わると、
「ステラ、まだこんな所を歩いていたの? 随分とのんびり屋さんね」
「……イブ!! 無事だったんだね! ダナンは!?」
「彼なら問題無いわ。少し眠っているだけで、あと少ししたら目が」
イブの銀翼に包まれていたダナンがゆっくりと瞼を上げ、欠伸をかく。頭を乱雑に掻き毟り、機械腕の動作確認を終えた青年はステラへ視線を向ける。
「……イブ」
「なに? ダナン」
「奴は……エデスはどうなった」
「生きてるわ、取り敢えずね。後は彼の気持ち次第よ」
「そうか……良かった。ステラ」
「う、うん」
「頑張ったな」
「……」
「大変だったろ、すまん。後、サテラ」
「は、はいッ!」
「傷は無いか?」
「だ、大丈夫、です……」
「なら……あぁ、生きていてくれて……ありがとう。安心しろ、これからは……いや、ゲートに着くまで俺がお前等を守る。まぁ何だ……大船に乗った気持ちでいてくれ」
身体の関節が正常に動くかどうか確認したダナンは、柔らかな笑顔を浮かべるとステラの頭を撫で「行くぞ、ゆっくりとな」死体の手からアサルトライフルを引っ手繰るのだった。