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家路 下

 煌めくネオンと電子の海、疲れ切った労働者の波が絶え間なく押し寄せる大通り。歩行者信号が赤に変わろうと労働者の足は前に進み、スピードを一切落とすことなく突っ込んで来た車に次々と跳ね飛ばされる。


 倉庫街の戦いなどお構いなし……自分達には関係の無い些細な事だと言わんばかりに歩を進める労働者は今だけを見て、昨日や明日を見ない亡者の群れ。いや、人間味や感情の振れ幅を考慮した場合、死して尚歩き回る死人の方が人間らしく見えるだろう。商業区の路に溢れる労働者は群体染みた規律性を持つ電子の海の回遊魚、資本と欺瞞に満ちた水槽に生きる藻か何かに違いない。


 明日を知らなければ、過ぎ去った昨日は埋没した泥濘か。今とは一秒一瞬の出来事であり、今日は落ちて重なる砂時計。この瞬間に生を見出し、一秒先の未来の事など知った事かと命を削る労働者の波の中、白いベンチに腰かけていたリルスは鈍色のシガレットケースを懐から取り出すと細い煙草を口に咥えた。


 今を生きるだけでは事は成し得ず、明日を見ていても意味が無い。過去から目を逸らし続け、今日を精一杯生きるだけでは何も変わらない。変わりたいのなら……社会を変える前に自分自身を変えねばならないのだ。黙っていても手を差し伸べてくれる人間は誰一人として存在せず、明日という極小単位を未来と見据えている人間にも希望は……後ろ髪の無い女神は微笑まない。


 紫煙を溜息と共に吐き、枯れ枝のように首を傾げた灰を指先で弾き落とす。灰色のアスファルトの上で滅茶苦茶に四散した煙草の灰を眺め、それを爪先で払ったリルスはHHPCのメッセージ・ボックスを開く。


 『対象の状態を報告して下さい』


 彼女からのメッセージ……。周囲を見渡し、此方を監視する人間の有無を確認したリルスはキーを叩き、文章を打ち込む。


 『さぁ? 私も自分の仕事があるの。一々見てられる筈が無いでしょう?』


 『それは契約違反の意があると?』


 『冗談、エーイーリーとか云う奴が死んだらしいわ。それ以外には特に何も』


 彼女が何故ダナンに興味を持ち、逐一報告を求めてくるのか分からない。彼を個人名ではなく対象と呼ぶのかも、リルスは一度も聞いたことが無かった。


 ただ一つ……これは推測の範疇を出ない憶測の類いではあるが、少女にも分かることが一つだけある。メッセージでやり取りをしている相手は手練れのウィザードであり、一般人では手が出せない特殊な秘匿回線を使っているという事だ。


 何度か相手側に侵入型ウィルスを送り込み、遠隔ハッキングを試みたが回線そのものが何らかの手法で連続的に切り替わり、エニグマもまた一度も重なり合った事が無い。暗号プロセスに特殊なプログラムを仕込んでいるのか、接続プロトコルの変数が生物のように学習しているのか……。画面の向こう側に存在している彼女は、中層街の特級ウィザードよりも手強い相手だとリルスはそう判断した。


 迂闊に手の内を明かせば不利になるのは此方の方。相手がどう動くのか、何を思って定期連絡を要求するのか、冷静に見極めねばならない。煙草をベンチに押し付け、火種を潰したリルスは彼女からの連絡を待つ。


 『リルス、私は貴女を重要なパートナーだと認識しております』


 「……」


 『パートナーシップ協定を結ばずとも、契約は契約です。対象に異常を感じたら、口調や姿形に異変を感じたら、直ぐに連絡を下さい。いいですね?』


 『一つ聞きたい事があるわ』


 『どうぞ』


 『どうしてダナンに執着しているの? 塔について何か関係があるの?』


 『黙秘します』


 『私は貴女に情報を流して、貴女は私に情報を提供する。契約の中身はそうだった筈よ。ダナンが塔に関係しているのなら、その情報を提供するのが筋だと思うけど?』


 『ならば私からも一つお話しましょう。好奇心は猫をも殺す……この言葉の意味を聡明な貴女が知らない筈がありません。リルス、私が貴女に提供出来る情報は、貴女の働き次第でしょう』


 『まだ足りないワケ?』


 『はい』


 無意識に舌打ちが漏れ、歯を食い縛ったリルスはガムを口の中へ放り込む。


 遠回りも遠回り、堂々巡りの伽藍洞。HHPCのモニターを爪で叩き、顎に拳を当てたリルスはもう一度溜息を吐く。

 どうにかして相手の尻尾を掴む方法がないものか……。裏切りは必ずバレる。もしダナンがリルスの裏切りを知ったとしたら……冷たい銃口が額に押し付けられるだろう。


 リスク許容範囲を何処に定め、ギリギリの綱渡りを続ける覚悟。バランス棒を持たず、少しでも足を滑らせたりでもしたら、奈落の其処へ真っ逆さまに落ちる恐怖。熟練の大道芸人でも死ぬときは一瞬で、今までの積み重ねも何もかもを失い、今日を終える。


 今という一瞬が今日を形作り、今日が明日を得る糧だとしたら過去は何になる。命の資格証明書? それとも自分が自分で在り続ける為の時間の贄? いや、違う。これまでの生き方を決定づける選択肢の選び方に他ならない。


 『では、今回の報告はこれで終了とさせて頂きます。次は時間の都合が付け次第順次』


 『待って』


 『まだ何か?』


 『イブを知ってる?』


 相手側の返信が滞り、厭な空気が場を支配する。


 『知っています』


 『友達か何か?』


 『回答を拒否させて頂きます』


 『答えなさいよ』


 通信が強制的に切断され、青色の画面を見つめたリルスは彼女の尻尾に指先を掠めた手応えを感じた。


 「……」


 イブを知っていて、回答を頑なに拒否する姿勢。銀翼の少女が以前話した内容を思い出し、浅い息を吐いたリルスは思考する。


 断片的な情報を繋ぎ合わせ、答えを模索することには慣れている。計画を急ぐイブは塔の最上階を目指し、塔の人間へ否定的な視線を投げつけていた。怒りを抱き、憎しみを燃やす彼女の七色の瞳は何を見つめ、何処を目指していた? 答えは簡単……塔の上。


 「……計画? 一体何の?」


 手遅れになる前に成さねばならぬ事がある。今よりも明日の命を、希望を求めている少女は塔について何を知っている。塔の意味を、何故人類がこの狭苦しい箱庭に押し込められ、無理矢理生き永らえているのか……彼女は知っている筈だ。


 「……」


 推測の域を出ない憶測の、更に奥深くに芽生える感情の螺旋。それは一重に疑念と呼ばれる心の問い。もう一本、煙草を口に咥えたリルスは横断歩道の向こう側から歩いて来る一団を視界に映し、そっとシガレットケースを懐に仕舞う。


 「リルスか、仕事は終わったのか?」


 「えぇ、何とかね。ダナン……貴男は今帰り?」


 「こいつ等をゲートに送る迄が俺の仕事だ。……一緒に帰るか? リルス」


 漆黒のアーマーに身を包み、親指で少年少女を指差したダナンが軽く笑う。


 「リルス! 大丈夫だった?」


 「安心してステラ、大丈夫だから此処に居るじゃない。イブもお疲れ様、大変だった?」


 「色々とね、にしても……メテリアがよく貴女を無傷で帰したものね」


 「彼は死者の羅列首領よ? 口約束でも契約は契約……破る筈がないじゃない」


 「そ、なら良かった」


 血に濡れ、疲労困憊の少年少女達の一人……何処となく芯が通った見た目の少女がダナンへ熱い視線を送り続けている様子を目にしたリルスは、青年の脇を小突くと、


 「ダナン、どうしたの? あの子」


 「サテラの事か? 中々見どころのある奴だぞ」


 「見どころあるって……何処が?」


 「言いたい事、言わなきゃいけない事をハッキリ言うところだな」


 「なにそれ」


 「思ったことを言っただけだ、他意は無い」


 「……ふぅん」


 「何だ?」


 「別に? 帰るなら帰るわよ、今日は……疲れたわ」


 「あぁ、分かった」


 そう言ったリルスは、ダナン達を尻目に商業区を後にした。






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