ネオンに濡れるビル街は、鋼鉄板で覆われる空と相まってマリンスノーが降り積もる海の底のように見えた。
遠ざかる商業区をぼんやりと眺め、喉の奥に詰まった空気を溜息と共に吐き出したサテラは震える指先を強く握り締める。
絶望的な状況であっても、死神が耳元で終わりを囁いていたとしても、あそこから生きて帰ることが出来た。指先に張り付いた血を擦り落とし、口の端から流れる血の雫を拭った少女は今更ながら膝を震わせ、へなへなと地べたに座り込む。
「どうした?」
「……いえ、少し、疲れただけです」
「立てるか?」
「……」
ダナンのドス黒い瞳を見つめ、疲労が滲む笑顔を浮かべたサテラはどうにか立ち上がろうとしたが、緊張の尾が切れたせいか手足は思うように動かない。
まだゲートとは距離がある位置であるのは確かだった。鋼鉄板の空と繋がる黒鉄の筒……中層街と下層街を繋ぐ階層間管理エレベーターに辿り着くまで安全とは限らない。何処からともなく響き渡る銃声も、仄暗い路地の奥から木霊する誰かの叫喚も、此処は下層街であると主張する危機の調べ。姿無き獣は、弱り切った者を付け狙う。
「待って下さい、今立ち上がりますから……」
「動くなよ」
「え? あ」
軽々とステラを背負ったダナンは「あまり無理をするな」と呟き、歩を進める。
「あの……重たくないですか?」
「遺跡に潜る時の荷物と比べたら羽根みたいだ」
「……えっと」
「何だ?」
「その、手が……お尻に」
「そっちの方が楽だろ? 何だ、気になるなら背負い方を変えるが」
「……」
下心など無いと信じたい。現に、尻を支えるダナンの手は機械腕含め撫で回すような動きは取っていない。
だが……乙女心とは複雑怪奇な迷路のようなもの。頬を朱色に染めたサテラは「お願いします……」と消え入りそうな声で呟き、顔をダナンの肩に埋める。
濃い血の香りが鼻孔を刺激した。半壊したボディアーマーからは焼き焦げた鉄特有の独特な臭いが漂い、コンバット・スーツは軽く触れただけで滑った血が染み出ていた。
「……」
「サテラ」
「はい……」
「中層街に帰ったら」
「……」
「下層街のことは忘れろ。此処はお前等みたいな人間が居ていい場所じゃない」
「……ダナンさんは」
「あぁ」
「中層街に……行きたいと思ってますか?」
「馬鹿な質問をするな。下層民が中層街に行ける筈が無いだろ?」
「もしもの話です」
「もしも、俺が中層街に行けるとしたら多分断るだろうな」
「どうして?」
「俺一人行ったとしても意味が無いからだ」
「……」
煙草を口に咥え、火を着けたダナンは紫煙を吐く。鼻にツンとくる苦い臭い。
「サテラ、お前にも家族が居るだろ?」
「はい」
「家族を捨てて別の……それこそ此処とは違う別世界に来いだなんて言われたら、お前はどう思う」
「……結婚ならいいですけど、会えなくなるのは……嫌です」
「それと同じだ、此処で手に入れた……違うな、今やっと見えた繋がりを俺は捨てたくない。リルス、イブ、ステラと別れるくらいなら……俺は下層街で生きる」
「ダナンさんの両親は」
「居ないし、育ての親はとっくの昔に死んじまった。そうだな、アイツらが今の俺の家族なんだよ」
前を歩く三人の少女を見つめるダナンは少しだけ笑い、煙草を揺すって灰を落とす。
「もっと早く」
「……」
「今じゃなくて、もう少し早く気が付いていれば……失わなかったんだと思う。しょうがないと諦めて、仕方がないからと割り切っていたから……見えなかった。俺には信念も理想も無い。だけど……戦う意味と理由さえあれば、俺は戦える。きっと……この思いだけは間違いじゃない。今の俺はそう思うよ、サテラ」
「ダナンさんは、強いんですね」
「……」
「強いから、自分に自信を持っている。戦えるから、選択肢を選び取ることが出来る。何だか……妬けちゃうな」
下層街では力ある強者が選択権を握り、弱者に選択の意思は与えられていない。弱肉強食の理……その言葉が持つ真の意味を経験から学んだサテラは、ダナンの機械腕を指先でそっと撫でる。
「ダナンさん」
「何だ?」
「私は……貴男から見た私は、弱いんですよね?」
「……」
「銃を撃つことも出来ないし、一人で機械体を倒せない。貴男のように血を恐れず、戦いと真っ向から向き合うことが出来ないんですよ……私は。弱いのに、理想を抱く事は……烏滸がましいと云えますか?」
「戦う必要が無いのなら、無理に銃を握る必要は無い」
「必要がある時は?」
「その時は……腹を決めるしかないだろうな」
「……ですよね」
「けど」
ナイフを握って襲い掛かる浮浪者を蹴り飛ばし、顔面を踏み潰したダナンは「殺さない選択肢があるのなら、その方が良い」冷たい声で言い放つ。
「ステラには何度か言っているが、俺はアイツに人を殺して欲しくない」
「でも、下層街で生きている限り人殺しは」
「それでもだ。サテラ、お前等中層民には分からないだろうが、人間を一人殺せば歯止めが効かなくなるんだ。二人殺せば銃の引き金が軽くなって、五人殺せば心が慣れる。日常的に殺して、裏切って、恨みを買ってまた殺す。ステラには……あの子はまだ幼い。下層街の日常に俺は染まって欲しくない。その為なら……俺が敵を殺す。守りたい誰かの為に、自分の単なるエゴの為に……殺すんだ」
「それは……自己犠牲の精神です」
「違う、身勝手な我が儘だ。結局は……戦う理由を誰かに見て、殺しの意味を正当化させているだけ。そんな……綺麗な言葉じゃない」
「……」
徐々に、だがゆっくりと……ゲートが近づいて来る。思い悩むサテラへ「帰れる場所があるなら、待っている人が居るなら、お前は大丈夫だ。もう二度と下層街に来るんじゃないぞ? 分かったな」ダナンが優しく語り掛け、少女を地面へ降ろすと武装した治安維持兵を指差した。
「……ダナンさん」
「あぁ」
「本当に……お世話になりました。ありがとうございます」
「俺は仕事を熟しただけだ。礼を言われる筋合いは無い」
「それでも……助けて貰いましたから」
「……そうか」
銃を構えながら近寄る治安維持兵が少年少女の身元を調べ、通信機を耳に当てる。
「はい……確かに行方不明となっていた子達です。はい……遺跡発掘者と、その他三名の少女が同行しています。はい、ディック統括部長が? 直々に?」
管理局の扉が開き、重武装の兵士に囲まれた身形の良い男……ディックがサテラに近づくと、無言で頬を平手で叩く。
「現実を見たか、サテラ」
「……」
「お前が此処まで愚かだったとは思わなかった。これに懲りたら馬鹿な真似は止せ。エリーには私から言って聞かせる。行け」
「パパ……その」
「行け、お前の言葉など無意味なものだ。理想主義者の末路は何れも破滅……時間を無駄にするな、ステラよ」
「はい……」
兵士に付き添われ、少女は重い足取りでゲートへ向かう。
「遺跡発掘者……いや、ダナン。貴様の働きはサイレンティウムへ報告させて貰おう。よく娘を」
ディックの握手を求める手を素通りしたダナンはサテラの手を握り、
「もし」
「……」
「何かあったら、何かの間違いで下層街に来る用事が出来たら、先ずはリルス……俺の仲間に連絡しろ。依頼なら俺が全力で守る。だから……もしお前に譲れない理想があって、守らなきゃいけない信念があるのなら……諦めるな。サテラ、お前ならやれる。絶対にな」
溜息を吐くリルスから連絡先が記された紙切れを受け取り、少女に握らせると厳めしい目をしたディックへ視線を向けた。