「何か用があるのか? 話があるのなら手短に話せ、ダナン」
「別に無い」
「嘘だな」
「……」
「貴様の目は真偽を問う獣の目だ。林の中に潜む罠を疑い、狩人の銃口に牙を剥く狐狼の瞳……。話したい事があるのなら言葉にしろ、人は心の内を覗き見る瞳など持ち合わせていないのだからな」
淡々と、だが堂々と……薬指に嵌められた指輪を弄り、杖先を勢いよく地面に叩きつけたディックは動揺する兵士を諌め、鷹のような鋭い眼でダナンを射抜く。
「……なら三つ、聞きたいことがある」
「言え」
「一つ、お前はエーイーリー……化け物の存在を知っていたのか?」
「知らん」
「二つ、サテラ達……捕まっていたガキを助ける為に、お前は何をしていた」
「下層街ゲート管理局課長、エデスに仕事を振っただけだ。後の事は奴の采配次第、失敗するも成功するも、其処で人質が死のうとも……中層マフィアという不穏分子を一掃できればそれでいい」
「三つ……サテラが死んでも、お前はその心を変えなかったのか?」
「それはそれで、これはこれだ。身内の情に絆される程私は甘くなど無い。これで満足か? ダナン」
自分の娘が死のうとも、辛うじて生きて帰ろうとも、当初の目的であった中層マフィアを殲滅することがディックの目的だった。囚われた少年少女を助け出すのは殲滅作戦の次いで……それこそ寄り道程度の些細なこと。彼の答えを聞き、唇を噛み締めたサテラは肩に掛けられた毛布を握り締め、項垂れる。
「どうしてそんな事を聞く? 貴様には関係の無いことだろう?」
「気になる事があっただけだ」
「気になる事?」
「……一応は、助ける気があったんだな」
腰に吊っていたマグナムに伸びた手がグリップを撫で、ドス黒い瞳に蠢いていた殺意に陰りが見えた。
此処で皮肉を吐き、銃口を向ける青年がダナンという人間だ。己の不利益になる人間を殺し、騙す者へ死を撒き散らす殺戮者は一人納得したように小さく頷き「もう用は無い。グローリアに宜しく伝えておいてくれ」と話し、ディックへ背を向ける。
「……銃を向けないのか?」
「向ける必要が無い」
「私を殺そうとしないのか? 貴様が?」
「答え次第では銃を向けていただろうな」
「ダナン、貴様は」
「分かった事がある」
「……」
「お前が俺を殺す為にエデスを唆したのなら、俺はアイツの為にお前を殺していた。サテラを見殺しにするつもりなら、治安維持軍に救出要請を出さなかった。エーイーリーの存在も分からなかったのなら……仕方が無い」
薄闇が降り積もる大通りへ歩き出したダナンは、アサルトライフルの銃口を向ける治安維持兵を睨み、
「それはそれで、これはこれ。良い言葉だな、ディック。嘘と真実を曖昧にするにはうってつけの一言だ。だから、俺も使わせて貰おう。殺すも殺さないも……それはそれで、これはこれ。無意味な殺しに割く時間は無いし、お前を殺したところで俺の苛立ちが静まるわけじゃない。違うか?」
彼の圧力に屈した兵士は無言で道を開けた。
「……」
遠ざかる背中と微かに香る血の匂い。
「……」
理屈に意味を求め、意思に理由を探るダナンの姿は過去の友人を思わせた。
「……て」
今、この瞬間に手を伸ばさななければ、奴の首に枷を嵌められないような気がした。長い間サイレンティウムという蠱毒の中で培ってきたディックの勘が嘯くのだ。
人間に成ろうと藻掻く獣に首輪は付けられない。人の尺度で物を考える貴様に、足掻き続ける者など御せる筈が無いと。
「ま」
「待って下さい! ダナンさん!」
兵士の手を振り払い、ディックの横を走り抜けたサテラが息を切らしてダナンのベルトを握る。何処にも行かないでと、まだ話したいことがあると……少女は額を青年の背に当て、ボディアーマーの亀裂を指でなぞる。
「……何だ?」
「……ダナンさんは、自分で何か、成し遂げたいことはありますか?」
「……」
「私は、下層街も中層街も、みんなが生きられる世界であったら、どれだけ良かったかと思うんです……」
「そうか」
「でも、多分、私だけじゃ駄目なんです。私一人だけの力じゃ限界があって、一人の長居や祈りだけじゃ……それはただの願望だと、そう思いませんか?」
「あぁ」
「だから……ダナンさん、私が変えて見せます。いえ、私だけじゃなくて、下層街も中層街も、全員が生きられる世界を目指してみせます。何年掛かっても……必ず」
サテラは流れる涙を拭い、赤く腫れた目を擦る。
最低限の返事を返すダナンの目は下層街の闇を見据え、己が在るべき世界を映していた。血と臓物が飛び散る路地裏、麻薬中毒者が蔓延る路地、妊婦や子供が玩具のように殺され内臓を抜き取られる地獄……。アサルトライフルの引き金に指を掛け、殺意を滾らせる青年はゆっくりと歩き出し、三人の少女……リルスとイブ、ステラの前に立つ。
もう……彼は振り返らないのだろう。光を手に入れようとしても、それは己とは別の光に違いない。仄暗い路を征く者の心は、屍と血によって作り出された修羅の道なのだから。
両の手を握り合わせ、ディックと向き合ったサテラは「パパ、私は」と呟いたが、父の双眼はダナンだけを見つめていた。
「……私は、ヴェルギリウスには成れないのか?」
「……」
「地獄の門は此処に非ず。煉獄川を渡る小舟は何処にある? いや、そもそもお前は……ダンテに成ろうとしていないのか? 違う……ダナン、貴様はダンテで在るべきだ。罪に溺れ、悪に喘ぐ者こそがダンテに相応しい……。ならば……足りない要素はベアトリーチェなのか? ダナン、貴様のベアトリーチェは何処に居る」
ブツブツと独り言を呟くディックの姿は娘であるサテラでさえも見たことが無い不気味なモノだった。濁った眼は狂気を帯び、口元を押さえて思考に耽る男は少女の視線に気づくと興味が無い素振りで「まだ居たのか……今すぐ中層街へ戻れ」と眉間に皺を寄せる。
「……パパ」
「……」
「ヴェルギリウスって、何?」
「神曲すら知らんのか貴様は。ヴェルギリウスとは地獄の案内人……ダンテを最愛の彼女と再開させる切っ掛けを、いや違うな……赦しの機会を与えた者だ」
「赦し……」
ダナンが赦しを欲しているというのだろうか? 階層管理エレベーターへ進むディックの後ろ姿を眺めたサテラは、下層街に蔓延する罪悪の香りを嗅ぐ。
鼻腔を擽る血の香りと死体の臭い。泣き叫ぶ弱者には生きる権利は無し、罪悪を冠した強者が笑う弱肉強食の地獄。甘さは弱さであり、優しさもまた死を招く呪い。
生きる為に他者を殺し、殺されない為に血を求める者だけが命を繋ぎ、明日を得る。誰もが狂っていて、誰もが絶えぬ憤怒を抱える異常な世界……それが下層街。法を求めず、無法に喘ぎ、逃れられぬ理は強者でさえも頭を垂れる獣の法。
赦しを求めているのなら、罪に贖いを求めているのなら、この狂った世界で生きる人間にも救いは在るべきだ。極少数……大多数の人間が法を否定し、殺意に染まった獣性を剥き出しにしても、一人だけ救われる結末なんて認めてはならない。
「……」
遠ざかるディックとダナンの背を交互に見つめ、頬を叩いたサテラは瞳に決意の炎を宿す。
誰かに否定されても、認められなくても、己が求めた理想を捨ててはならない。
信じられないと糾弾されても構わない。意味が無いと呆れられても諦めない。皆が生きる世界を手に入れる為に、下層街の人間が……ダナンとその仲間たちが生きられるように、下層街と中層街を変えて見せる。何年掛かろうと……必ず。
「これが……これからが、私の戦いね。そうでしょ? ダナンさん」
そう呟いた少女はディックに似た鋭い目つきでエレベーターを見据え、力強く歩き出すのだった。