文明という概念はどの位置から始まり、誰の手で終わるのだろう。
戦火に燃える都市の炎、薙ぎ倒される木々の悲鳴、撃鉄が告げる開戦の咆哮……始まりがあるように、終わりもある。幾重にも折り重なる慟哭が、煤けた大地に降り注ぐ涙が、歴史の爪痕をなぞり点と点を繋ぐのだ。
文明とは人間の始まりだ。個が集団を知り、集団が秩序を求め、秩序が法を手繰り寄せる。集団はやがて都市を形成し、都市は人が人らしく生きる為の安寧を与え、繁栄と滅亡の往復切符を人の心に握らせる。
文明の終わりとは、人が持つ欲望の氾濫と内で蠢く獣性の顕在化だ。イデオロギーの衝突は戦乱の闇を以て人の目を曇らせ、際限の無い欲望を肥大化させる種を撒く。文明の興亡は終わりであり、新たなる始まりである。
ならば、文明とは何だ? 人の歴史は血によって書き殴られる戦いの記録なのか? 相容れぬ故に争い、満足する為に欲望を滾らせる人間は……本能に支配された盲目の獣に違いない。両の目を黒染めの麻布で隠され、誰を傷付けているのかも己でさえも知り得ぬ者は鎖に繋がれた闘獣と何ら変わらない。
曰く、罪人を遠く離れた大陸へ流し、原住民を殺戮せしめた歴史がある。通常ならば人間を数える際に用いられる言葉は『人』である。だが、大陸に渡った罪人の手記には原住民を『匹』と書き、本国は軍人に殺戮許可証を発行した。産業革命という大渦に飲み込まれ、文明を次の段階へ至らせた人間の業。満たされない欲望が彼の大陸の原住民……アボリジニの虐殺を許容したイギリス人の文明は、産業革命という燃料を燃やしながら世界中に災禍を撒く。
過去多くの先住民を虐殺し、迫害し続けたアメリカ合衆国は自由を掲げ、強大な国力を以て戦争に勝利し続けた。第一次世界大戦、第二次世界大戦、イラク戦争、中国との貿易戦争……戦争経済に頼り、最も発達した文明を得たアメリカが得たモノは歪んだナショナリズムと束縛された自由。蔓延する麻薬はアメリカ国民の心身を蝕み、広がり続けた格差は新たな戦い……国内の内戦を引き起こすに至る。
文明とは文化であり、文化は人に在る。過去からの積み重ねを無下にした国は悉く滅び、再興の道を模索する。文化人と知識人を虐殺した中国共産党の文化大革命、腐敗した政治屋と権力にしがみつく官僚によって破壊された日本国、発達したインターネット回線から結びつく若年層のSNS汚染。文明とは人の手によって作られる猛毒であり、無限の欲望を開花させる汚染肥料とも云えるだろう。
罪悪の揺り篭にして、贖いの方途は仄暗き道也。どれだけ小さな塵屑であろうとも、積もり重なれば山と成る。うず高き山を払い、底に眠る石は玉石か石礫か……それとも何も無い空虚な滅びか。過去に罪があれど、今を生きる人間に贖罪の責はあるのだろうか? いや、そもそも文明とは本当に猛毒であるのだろうか?
文明が発達したおかげで人は今世に迄生き残り、僅かながらも前に進むことが出来たのだ。男と女が子を作り、その子等を守る為に文明が在り、残さなければならない想いがあるから文化という言葉が刻まれた。もしかしたら……褐色の大地が地表を覆い、厚い鉛色の空に包まれた地球にも、終わってしまった星であっても人は再び文明の鍵を手にする時が来るのかも知れない。
終わりとは始まりであり、始まりもまた終わりを伴う痛み。痛みを味わうが故に同じ過ちを繰り返さないと誓い、人は再び戦火に喘ぐ。だが、それでも人は生き続けてきたのだ。苦しみに涙しながらも歯を食い縛り、拳を突き立てて立ち上がり、絶望に満ちた闇へ立ち向かう。生きる事は永遠に続く苦難であり、その果てに見出す一種の到達点……満足する死の頂きへ進む為に人は命を紡ぐ。人生という名の道を、一歩ずつ。
「……」
苦しみは痛みの副反応であり、人だけが認識できる稀有な能力だ。
「……故に、我々は満足する死へ至らねばならない。苦難と闇を恐れず、杯に満ちた苦役を全うするべきなのだ。人が悶える度に神は喜びに打ち震え、人が喘ぐ度に神は人の中に己を……狂気を見出し、己が姿を思い出すであろう。死は救済であり、新たなる門出。神の子等、我が信徒よ……遺塵と成れ」
苦しみを噛み締める度に人は傷を負い、劣化という名の老いを得る。
「絶望とは甘美な蜜であり、傷の痛みを認識させる苦役の鞭。希望とは苦々しくも決して手放せぬ精神麻薬……無い筈であるのに手を伸ばし、其処に存在すると妄信する人間が抱く泡飛沫。だが……聞くがいい我が信徒よ、希望を求めるが故に絶望を知り、絶望を得るが故に虚ろな希望を夢に見る。それが……人間という生物なのだ」
蝋燭の灯りが揺れ、巨大な歯車が空気を震わせながら回り出す。
歯車の螺旋に囚われた脳髄と、無貌の仮面を被る黄金の涙。青白い光を発するタブレット端末を片手に、白装束の信者達を一望した教祖はゆっくりと祭壇へ歩を進め、磔刑に処されたイエスを見上げた。
「人の罪は永遠の咎である」
一人、教祖に歩み寄る白装束がイエスへ槍を向け、
「神は汝等を許すであろう。しかし、神と呼ばれる不確かな存在は、この世に許容されていない」
また一人、槍を手にすると歯車の音に合わせ、イエスの心臓へ刃を向けた。
「文明とは人の毒性にして、星を滅ぼした罪である。罪は悪を生み、悪は永遠の苦しみを人に与えたのだ。神の千年王国など夢物語に過ぎず、偽物の救世主は未だ人の罪を償わぬ罪人である。そして、我々は神の子等……不確定で愚かしい者の子では無い。子等よ……汝らは私の子だ。子を導くのが親の役目であるのなら、私は汝へもう一度道を示そう」
「死は救済である」
「如何にも」
「希望は失せ、世に残るは罪悪の園である」
「肯定しよう」
「教祖様……震え狂う神の使徒よ、どうか我等に真なる歴史を……血塗られた文明ではなく、光明に満ちた道を指し示して下さいませ」
「約束しよう……我が子等よ」
涙を流す教祖は両の手をパッと開き、天へと伸びる。
「悲嘆、悲観、慟哭、悲哀、憎悪……悪なる感情を燃やすのだ、全てを滅却する怒りを胸に宿し真なる救世主を迎え入れよう。銀の翼の天使と共に、黒鉄の義肢を持つ灰の救世主はこの塔に舞い降りた。救世の道は生に穢れた汚濁の路、生は死の為に敷かれた栄光の架け橋である。我が信徒よ……故に讃えよう、我等が求める世界が迫っていると。喝采しよう、死が我等の救い主であると……」
ゆらゆらと燃ゆる蝋燭の炎が一斉に消え、辺りが静寂に包まれる。
騒めきも、囁きも、嘯きも……誰一人として言葉を発しない静寂の中、教祖は小瓶を取り出し、祭壇へ捧げると仮面を剥ぐ。
「我が子等よ、私の顔が見えるか?」
「見えませぬ」
「我が子等よ、私の涙が見えるか?」
「涙など流しておりませぬ」
「我が子等よ……汝らは涙を流しているのか?」
「貴方様が涙を流さぬ限り、心の内を吐かぬ限り、我々もまた決して涙を流さぬでしょう」
「……我々は無貌なる者にして、薄闇に紛れる者。深き絶望を彷徨い、求めるべき真なる自由……満足する死を願う者達也。我が子等よ、己が死を目の当たりにした時に汝は顔を得る。その時にこそ涙を流すのだ……偽りの涙ではなく、清き一滴を……双眼から流すがいい」
モザイク調で彩られた曖昧な顔を信徒へ晒し、大きく息を吸った教祖は、
「我々は……ただ泣く為に産まれたのではないのだから」
と、小さく呟いた。