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獣と少女

 白い大理石の壁には緑の蔦が茂り、色とりどりの花々が咲き誇る庭園は到の昔……二百年以上前に失われた自然の香りに満ちていた。


 「……」


 ピアノの脚に絡まった蔦が、少女の奏でる音楽に合わせて背を伸ばす。


 「……」


 鍵盤を弾く指は死人のように生白く、肉が付いているのに何故か骨ばって見えた。皮膚の下を這う血管の青と、熱に火照る透き通った朱色……。白装束を身に纏い、フードを被った少女が奏でる音楽は涙に濡れている。長いまつ毛に隠された瞳から涙の一滴も流れていないとい云うのに……少女は心を曲調に乗せ、鍵盤を叩く。


 彼女は美しいと男は思う。肩辺りで切り揃えた銀の髪には電子が奔り、毛先から放出された電子は光の粒子となって彼女の周りを漂い消える。穏やかな雪景色の中、自身の感情を音楽で表現する少女を男は口を閉ざしたまま眺め、悲しげな曲に耳を傾ける。


 何時だったか……彼女はこの世界には希望だけが無いと口にした。曇った眼で情報端末を操作して、諦めたように呟いた。己もまた同意見であるが、彼女の話した希望の有無とはまた違う。


 確かにこの世界は絶望に満ち、痛みだけが存在しているようと思っていた。無限の罪悪に溺れた下層街、綺麗事を口にしながら個々人の不幸から目を背ける中層街、生かさず殺さずの上層街……塔の内側には希望など存在せず、多くの苦しみが病のように蔓延しているのだ。


 だが……己にとっての希望とは、彼女の存在そのものを指すのだろう。彼女が居るから絶望に蝕まれること無く命を紡ぎ、愛という言葉の意味を知ることが出来た。彼女……カナンが己を駒の一つだと認識し、不必要になれば塵同然に捨てようとも……己は彼女を最後まで愛しているだろう。苦痛だけが命の糧であった己を、彼女は救ってくれたのだから。


 「……」


 長く続いた音楽が終わりを見せ、落ち着いた曲調を最後に細い音が一つ響く。フードの縁に指を掛け、星のように輝く銀髪を揺らしたカナンは「カァス、どうしました?」鍵盤を撫でる。


 「お前の曲を……終わりまで聞いていただけだ」


 「別に面白いものでも無いでしょう?  貴男にとっては退屈そのものかと」


 「そうだ、俺には曲の善し悪しなど分からん。お前のように教養があるワケでもなく、特段感性が優れているワケでもない」


 「なら最後まで聞かず、話しかければよかったでしょうに」


 「……お前の曲は好きだ。どんな音楽よりも価値がある」


 「御冗談を」


 「……」


 男……カァスはコートの裏地から紙煙草の箱を取り出そうとしたが、電子煙草の箱に持ち替える。カナンの前で真っ赤に燻る火種を見せたくはなかったし、調和を乱したくなかったから。


 「煙草ですか」


 「煙は出ない」


 「昔、父がよく煙草を吸っていたんですよ」


 「……それで?」


 「それだけです。しかしカァス……貴男はよく私の話を聞きたがりますね。面白くないでしょう?」


 面白いか面白くないか……そんな話ではない。他の人間が興味の無い話をしていたら、カァスは迷わず引き金を引いて相手を撃ち殺す。無駄な時間だと罵り、結論を先延ばしにする屑だと蔑んだ。しかし、カナンは別だ。彼女の過去を男は喉から手が出る程知りたかった。


 「カナン、お前の父親は……どんな人だったんだ?」


 「……さぁ、どうでしょう」


 「……」


 「理想論者の成れの果て……違いますね、特権階級に逆らった賊軍とでも云えばいいでしょうか? 母もよくあの人と一緒に居たものです」


 「なら……姉の方はーーー」


 少女の鋭い眼差しが男の言葉を制し、黙らせる。


 「……片割れの話はあまりしたくありません。必要な時に話します」


 「……すまない」


 「……」


 ぎこちない動きで再び鍵盤の上に指を置いたカナンは、静かに曲を紡ぐ。


 「……」


 彼女は上の命令で動く人間だ。上からの指示がない限り彼女は過去の記憶を元に作られた庭園で一日の大半を過ごしている。


 「……カナン」


 「何ですか?」


 「仕事はないのか?」


 「私には何一つとして指示が下されていません。勿論貴男にも」


 「だが、奴……以前遺跡で殺し損ねた遺跡発掘者をお前はどうするつもりだ?」


 「どうするとは?」


 「……障害になるなら殺した方がいい。一つ言葉を発するだけでいいんだ……遺跡発掘者を殺せってな。不安の種は確実に取り除いた方がいい」


 「……」


 絶えず奏でられる曲に激しさが加わり、複雑な曲調が加えられる。


 「カァス」


 「何だ?」


 「彼のルミナは以前の状態とは異なります」


 「ルミナなら俺だって」


 「貴男が持つルミナと彼のルミナは違います。貴男の体内に蠢くルミナは劣化版の複製品……コードを二つ有しているからと言っても、彼もまた同じ土俵に立っている。もし戦闘に突入した場合……勝率は五分でしょう」


 「……俺は負けない」


 「勝ち負けであればどれだけいいでしょう。カァス、貴男も知っているでしょう? 戦いとは生きるか死ぬかの二つに一つだと。それを知らない愚者ではないと……私はそう思いますが」


 「……」


 彼女の役にたたなければ、彼女の為に生きなければ、此処に居る資格は無い。たった一人で生きようとする少女の方を誰が支えてやれる。何もかもを諦めた瞳に誰が映る。もし少しでも……カナンの孤独に寄り添えるのならば、言葉に出来ぬ痛みを拭えるのならば、カァスは想像を絶する苦難に挑む覚悟を持っている。


 遺跡で殺し損ねた片割れを、未だ命を紡いでいる遺跡発掘者を必要とあらば必ずや殺してみせよう。皮膚を切り裂き、骨の一片まで残らず焼き焦がしてやる。奴等が持つコードを奪い、カナンが望む全てを手に入れてみせる。


 轟々とした激情を薪として焚べ、殺意の業火を瞳に宿したカァスは鋼の拳を握り締め、機械の軋みを声の代わりに唸らせた。やるべきことは……彼女の意思の向こう側にあるのだと。


 「お前が望む……全ての終わりを見せてやる」


 「……」


 「お前が動かないのなら、動けないのなら、俺が代わりに泥を被る。カナン……お前にとって、俺はそんなに頼りないのか? 俺は……お前の道具にすら成れないのか? もしお前が俺を信用出来ないのなら、信頼に足らないのなら……俺は」


 「カァス」


 「……」


 「動くべき時と動かざる時の違いが分かりますか?」


 「……」


 「計画は実行するべきではありませでした。父も計画の実行が正義だと思い込み、姉もまた計画そのものが希望だと信じ込んでいた……。楽園というのは人の手に委ねられるモノではありません。楽園の創造主とは神であり、泥で作られた人間は神の楽園で盲目の生を得るべきなのです」


 「上は……計画を完全に潰したと思っているようだが」


 「私の両親と元の仲間達、そして先生が簡単に計画の失敗を認める筈がありません。必ずバックアップ……保険を残しておく筈です。時にカァス……突然ですが貴男は釣りは好きですか?」


 「……やったことは無いな」


 「なら暇な時にでも試してみてください。餌を撒き、食らいつく時を待つのもまた一興。姉と遺跡発掘者は……私にとっての生き餌なのです」


 そっと立ち上がり、ため池へ足を伸ばしたカナンは餌をねだる鯉を見つめ、


 「塔からは……この閉ざされた世界からは逃げられないのですから」


 薄い笑みを浮かべた。


 「……」


 「どうしました? カァス」


 「……上層街の白の区画に釣り堀があってな」


 「えぇ」


 「……もしお前が暇なら、俺に釣りを教えてくれないか?」


 「……実際の釣りについては一言も話していないのですが、いいでしょう。今行きますか? それとも次回改めて?」


 「今からどうだ?」


 「えぇ、構いませんよ」


 柔らかな微笑みを浮かべ、白装束の袖を振ったカナンは庭園の出口へ歩を進めた。


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