鼻孔を擽る死体の香りも、腐敗した血の臭いも、蛆が集る臓物の汚臭も……下層街に生きる人間にとっては日常の一部だ。
空の色は何色なのか? そう問われたのならば、言葉も拙い幼子であろうとも黒と話す。鋼鉄板に覆われた空は明滅するランプを星明りに寄せ、下層民が言う太陽とはネオンに濡れた市街地の明りなのだから。
土の色は何色なのか? 答えは簡単、灰色のアスファルトか屍血が広がる淀んだ赤。麻薬中毒者の吐瀉物の色を答える者も居るだろうが、九割九分の下層民は本当の土を見た事が無い。
緑の木々を見た事はあるか? ビニール製の模造品を指差し、奇妙な形で溶け落ちた葉を見つめる少年少女達……否、大人でさえ柔らかな花弁に触れた事は無い。
この街は死が蔓延する狂人の都。銃弾よりも軽い命の価値と状態化された無法の世界。何時も何処かで誰かが死に、路地裏で産声を上げる赤子。無惨に撃ち殺される痩せこけた経産婦。それが少女……ステラが知る下層街の現実だった。
大人は子供を守らない……自分達が生きていく為に他者を犠牲にすることを当たり前だと思っているから。
子供だって大人を信用しないし、同い齢の少年少女を敵だと思い込んでいる。一瞬でも油断した姿を見せれば、無慈悲な牙を剥く事を知っているから。
優しさや甘さが命取りとなる世界は残酷であり、命の炎が激しく燃え盛っている。アルミパックに満たされたゼリーを啜り、銃身をスライドさせた浮浪者を目にしたステラは目の前を歩く青年の袖を引っ張ると「ダナン、私達を狙っている人が居るよ」抱えていた紙袋から肉缶詰を取り出した。
「放っておけ」
「けど、危ないんじゃない?」
「その時は俺が対処する。お前は紙袋を落とすな……コラ、勝手に缶詰を食おうとするな。あと少しで家に帰れるんだから我慢しろ」
「だって……ゼリー・パックだけじゃ足りないんだもん」
「……成長期って奴か?」
「どうだろ? 分かんない。ダナンはどう思う?」
「俺が知ってるワケないだろ? そう云う事はリルスかイブに聞け」
呆れたように溜息を吐いたダナンは、周囲を見渡すと獰猛な殺意を滾らせる。
「あ」
「……何だ?」
「遺跡の遺産、ポケットに残ってたみたい。どうしよ、コレ」
「次に回せばいい」
「うん」
「……なぁステラ」
「なに? ダナン」
「何と言うか……少し大人しくなったな」
「大人しくなった?」
「あぁ」
ステラの抱える紙袋を片腕に担ぎ、アサルトライフルのグリップを握るダナンがクツクツと笑う。
「大人っぽくなったと言いたいんだ、俺は」
「……まだダナンよりも、ううん、イブとリルスよりも小さいけど?」
「背丈とか恰幅の良さを言ってるんじゃない。心構えの事の事だ」
「……」
ライフルの照準器を覗き込み、浮浪者を撃ち殺したダナンはステラの頭を撫で、
「別に焦る必要は無い。お前自身の歩幅で進めばいい。安心しろ、ステラが独り立ちするまで俺が面倒を見るし、代わりに戦うからさ」
「……ダナンは、それでいいの?」
「いいんだ。それが正しいと……間違っていないと思っているから」
堰を切ったかのように襲い掛かる麻薬中毒者の波を真っ赤な肉塊へ変える。
下層街で優しさを見せるのは殺してくれと叫んでいるようなもので、甘さを見せるのもまた同義。少女を守ると話す青年は、下層民から見れば肥え太った豚そのものなのだ。
だが、商業区での戦い……イブと共に死地から帰還したダナンは以前と比べて何処か柔らかくなったような気がした。珍妙な仮面が不器用な笑顔を浮かべているような、閉じた貝が自らの意思で開こうとしているような……人間的な努力。血濡れのブレードを振り払い、頭を掻いた青年は「怪我は無いか? ステラ」と返り血を拭う。
誰かの為に力を振るい、自分以外の命を守る行為は下層街では間違いなのだろう。ましてや子供の為に戦うなんて在り得ない。だが……ステラは自分の仲間だけは違うのだと、偽りの家族であっても其処には確かな絆があると確信しているのだ。
「ダナン、ありがと」
「礼は必要無い。その……何だ、お前と俺は……仲間だろ? なら、あぁ……悪いな、上手く言葉に出来ない」
「ううん、分かるよ。分かるから……大丈夫」
「……助かる」
煙草を咥え、紫煙を揺らすダナンをジッと見つめたステラは小さな手を差し出す。
「何だ?」
「煙草、吸ってみたいんだけど」
「馬鹿野郎、餓鬼が吸うもんじゃねえよ。お前が一端の大人になってから」
「けど、ダナンは昔から吸ってたんでしょ? 私と同い齢の頃からさ」
「……誰から聞いた」
「リルス」
「……あんの野郎、家に帰ったら覚えとけよ。余計な事を教えやがって」
ブツブツと文句を呟くダナンを他所に、ステラは小さな微笑みを浮かべる。
厳しくも優しい大人。戦う力があって、敗ける事を考えない人。
不器用で、不格好で、笑顔が不得意な大人……銃や機械腕の扱いに長けているのに、誰かに触れる事を心の何処かで恐れている。リルスのように繊細な手つきで髪を梳くワケでもなく、イブのように優しく抱き上げるワケでもない。きっと……彼は怖がっているのだ、失ってしまう事に。
だからだろうか……ステラがダナンを信用し、絶対の信頼を寄せている由縁は。この汚濁が極まった下層街で生きていく上で、彼を目標にして生きていれば自分の道を見つけられる。そんな気がしてならないのだ。
「ダナンは」
「あぁ」
「私に人を殺して欲しくないんだよね」
「そうだな」
「なら……もし、私が人を殺しちゃったら……どうする?」
「どうしようも無かったのなら仕方ない」
「……」
「それはそれで、これはこれ……下層街で殺しに手を染めず、綺麗なままで生きることは難しい。それは俺も知っている。だから、俺の言葉がお前の重荷になるのなら……忘れてもいい」
「忘れないよ」
「……」
「絶対に忘れない。だって……それは大切な事だと思うから」
生き残るだけでは意味が無い。たった一人で生きていては、身体が丈夫でも心が干乾び死に至る。だから人は他人と生きようとするのだろう。
「前にも言ったと思うけど……私を見ててねダナン」
「……あぁ」
「ダナンが思うように私は強くなれない。間違った方向に行こうとしたら止めて欲しいし、何時もと変わらずに話し掛けて欲しい。アタシも……ダナンを支えられるような、強い人になるから」
「……あぁ、そうか」
もう一度ステラの頭を撫でたダナンは誤魔化すように微笑む。心の扉を開いては、閉じるように。
「帰ろう、アイツらが待ってる」
「うん」
「今の環境……お前はどう思う?」
「悪くないと思うよ? ダナンは?」
「俺は」
気持ち悪くて仕方ない。そう呟き、指先から落とした煙草を靴底で踏み潰したダナン。
「どうして?」
「綺麗すぎるからだろうな」
「それが悪い事なの?」
「環境が変われば住む人間も変わる。お前だってサテラと一緒に行動して分かっている筈だ」
「……」
「今の住処は……俺にとって別世界なんだ。治安が保たれていて、道端に死体が無い世界。こう考えれば……俺も下層街の人間なんだろうなって、そう思うんだ」
暫し歩を進め、治安維持兵へ身分証明コードを提示したダナンは目の前に広がる街並みを眺め、
「結局……獣は何時までたっても檻からは逃れられない。そう感じずにはいられないんだよ、ステラ」
と、乾いた笑い声を発するのだった。