ウゥン……と、階層間エレベーターが低い唸り声を発しながら緩やかに速度を落とす。
「……」
仕事以外で下層街へ向かう人間は後ろ暗い過去を持つ者か、軍関係者の何方かでそれ以外は非日常を体験するために誓約書を書いて降りる命知らずの旅行者だ。
「ねぇねぇ、下層街ってヤバい風俗とかあるんでしょ? 違法薬物も取引されてるみたいだし、上じゃ考えらんないよねぇ」
「大丈夫だって、もし何かあっても治安維持兵が僕達を守ってくれる。下層民を一人二人殺しても問題ないらしいし……マンハントとか試してみるのもいいじゃん?」
「うっわ最低! けど、一回は撃ってみたいよね、人間をさ」
サングラスを掛けた若い男女が腕を絡み合わせ、下層街での予定を話していた。
体験ツアーとは聞こえは良いものの、彼らが参加した旅行企画は下層街歓楽区を牛耳る組織肉欲の坩堝が画策した人間狩り。金糸のような髪を弄り、身の丈程のアタッシュケースを押した少女はゲートを監視する治安維持兵へ身分証明書を提示する。
「えっと、お嬢ちゃん。お父さんかお母さんに会いに来たのかな?」
「いいえ」
「なら」
「サイレンティウムの要件で参りました。居住区の裏路地へ向かうには何処へ行けばいいのですか?」
「えっと……お嬢ちゃん、下層街は危ない場所なんだ。君一人で行かせる訳には」
白いブラウスの上に金の刺繍が入ったケープを羽織った少女は良家のご令嬢と呼べる程に美しく、精巧に作られた人形のように可愛らしい。長い睫毛の下に揺れる瞳はビロウドをそのまま嵌めたように煌めき、病的にまで白い肌は艶めかしくも繊細で。
見れば見る程意識を持っていかれそうになってしまう。桜色の薄い唇から漏れる吐息にすら色が付いていると錯覚する。蠱惑的で妖艶な……齢不相応の魅力を放つ少女へ無意識に手を伸ばした兵士は、身を貫くような殺気に息を止める。
「お嬢様、私の側から離れないで下さい。下層街の危険性は貴女が一番理解している筈です」
「イスズさん、だからこうしてアタッシュケースを持って来たんです」
「御当主様から言われませんでしたか? 手を血に染める必要は無いと」
「その必要が無くとも、下層街は私を逃してはくれないでしょう」
少女の背後に立つ影は次第に人の形を作り、黒スーツを身に纏った女となる。
「しかし……困りましたね。ダナンさんは何処に居るのでしょう? 居住区以外となれば……商業区か歓楽区になりますが、イスズさんはどう思います?」
「あの遺跡発掘者は」
「ダナンさんです」
「遺跡」
「イスズ」
「……御当主様のご友人は治安維持軍駐屯地に居を移したようです」
「何処からの情報ですか? それは」
「私が懇意にしている情報屋から買いました」
「そうですか、では行きましょうイスズさん。御父様からの仕事を熟すために」
アタッシュケースを押し、歩き始めた少女の歩き方は何処か不器用で歪に見えた。正しい歩き方を忘れているような、片足で歩く事を強要されているような……不自然極まりない歩行。
「治安維持兵」
「は、はい!」
「お嬢様が此処に来た事は忘れろ。その方が身の為だ」
「サイレンティウムはあの少女を」
「無知は罪だが、知りすぎるのも罠と言えるだろう? いいか? 私は貴様の事を思って助言を与えている。あぁ、それとゲート管理局課長に伝えておいてくれ」
「な、何をですか?」
「宜しく……ただそれだけだ」
仄暗い闇に紛れたイスズは呆ける兵士を他所に、少女のアタッシュケースを握る。
「イスズさん」
「何でしょう、お嬢様」
「お嬢様は止して下さい。マナ、それが私の名前です」
「ですが」
「サイレンティウム総帥の権威も、御父様の権力も、今私が居る立場も……元々は存在し得ないモノ。それは貴女も分かっているでしょう? イスズさん」
「……はい」
マナと名乗った少女はクスクスと笑い、イスズが取り出した杖を手にするとリハビリを思い出しながらゆっくり歩を進める。
良く出来た少女だとイスズは感心せざるを得ない。下層街歓楽区から引き取られ、壊された身体を治療された少女。それだけならば運が良いと云う感想を吐き、関心の一つも彼女へ向けなかっただろう。運良く拾われ、中層街の特権階級の一員になった元下層民……マナを知らない人間は皆薄汚い小娘だと影で囁き、妬みや僻みの対象にしていた。
だが、運は彼女を形作る一要素に過ぎず、見方によればマナという少女の運は最悪な部類だろう。産まれた時から大人達の玩具になる事を決定づけられ、飽きるまで壊された瞬間同じような境遇の子供達を加工する仕事を熟す少女の何処に幸運を見ればいい。中層街に引き取られ、治療とリハビリを受けた後も欲に目が眩んだ者の嫉妬に焼かれる姿は幸運とは言い難い。
マナの強さは一言で云えば異常な貪欲性にある。知らなければ知ろうとするし、教師の言葉一つを聞き逃さずに飲み込み砕く知識欲。一を教えれば十を知り、十から百を見出し吸収しようとする底無しの欲望が彼女を中層街の強者に仕立て上げ、戯言を話す大人達を黙らせている。その姿を誰よりも近くで見ていたイスズは、マナにサイレンティウム総帥を重ね合わせ、絶対の忠誠を誓ったのだ。
強者に焦がれる本能が弱者の摂理ならば、彼女の学友が一日足らずで崇拝へ心変わりするのも理解できる。将来的に彼女は中層街のみならずサイレンティウム……ましてや下層街にも名を轟かせる偉人になるだろう。それが楽しみでならない。
「……イスズさん」
「何でしょう? マナ様」
「少し……顔を引き締めた方が宜しいかと。私を見て頬を緩めないで下さい」
「失礼しましたマナ様。そんなにニヤついていましたか?」
「それはもう……友人から貰ったスライムのようでしたよ?」
「申し訳ありません。いえ、御当主様が貴女に期待を掛ける気持ちが分かりますよ、えぇ」
「それは……どうも」
深い溜息を吐き、路地裏へ目を向けたマナがアタッシュケースを要求する。奇妙な造形を象った野犬の群れ……口に人間の臓物を咥え、狂ったように吠え叫ぶ。
「マナ様、お下がり下さい。此処は私が」
「必要ありません」
「ですが」
「一度……いいえ、昔の仕事道具を手入れする時間が必要でしょう。」
アタッシュケースの角を蹴り、開いた先からマナが抜いたのは鈍色に輝く大刃の切断鋸と小口径自動拳銃。
「上手く斬れるか不安ですが……獣相手に遅れは取りません」
狂った野犬へ銃口を向け、引き金を引いたマナは硝煙を纏いながら大きく息を吸う。
一発、二発、三発……次々と眉間を撃ち抜き、刹那の見切りで飛び掛かった野犬の健を切り裂いたマナは息を整え、アタッシュケースからもう一振りの得物……片刃の人斬り包丁を握る。
足の運びが悪い分、それを補う為に身体が覚えた殺しの術。下半身を無い物と断じ、上半身の可動域を極限にまで練り上げた少女の動きは獲物に喰らいつく蛇の様。もしもの為に待機していたイスズに頼る事無く野犬の群れを相手取っていたマナは、器用に身を捻らせ獣の牙を回避する。
「マナ様」
「分かっています」
薄く、硝子よりも更に薄く……少女の振るった人斬り包丁の刃は肉や骨を断つ得物ではない。その真の目的は生物を構成する要素……即ち細胞を両断する事にある。
「―――」驚異的な集中力と「―――ッ!」死をも恐れぬ片足だけの踏み込みと。肉体の柔軟さを武器に、狂犬の首を一太刀で落とした少女はその勢いのまま倒れ込む。
「お上手でしたマナ様、後はお任せ下さい」
満足気に頷き、野犬の群れを一掃したイスズはマナを腕に抱え、
「踏み込みに躊躇いが見られました。太刀筋は心の鏡……まだ貴女は上を目指せます。ご精進を」
血濡れの得物をアタッシュケースに押し込めた。