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哀歌 上

 「で、話ってのは何だ」


 食事を終えたダナンはマナを見つめ、煙草を口に咥える。


 ジッポの蓋を弾き、フリントを回す。細かな火花が舞い散り、ゆらりと炎が灯る。煙草の先を炎に近づけ、息を吸おうとしたダナンはイブとステラの視線に気付き、仕方無しといった様子で蓋を閉める。


 「煙草、吸わないんですか?」


 「別に」


 「そうですか、お義父様からはヘビースモーカーだと聞いていましたが」


 「その時々だろうな。無暗矢鱈に吸っているワケじゃない」


 フィルターの裏でテーブルを叩き、葉を詰めたダナンは含んだように笑う。


 「グローリアに何かあったのか?」


 「いいえ? お義父様はいつも通りです」


 「そうか」


 「もっと詳しい話がご所望でしたら、私が中層街へ行った日から順を追って説明します」


 「どうでもいい。お前のことなんざ一つも興味が無い」


 「それは残念です」


 口元を隠し、クスクスと笑ったマナは一つ咳払いをすると真面目な顔をする。少女の姿とはほど遠い……大人びた表情。目の前に置かれたコーヒーを一口啜り、喉の奥にまで残る苦味に顔を顰めたダナンは機械腕の指を折り曲げる。


 「イスズさん、資料をお願いします」


 「はい、マナ様」


 「様は不要と言ってるでしょうに……まぁいいです。ダナンさん、先ずこれをご覧ください」

 マナが差し出した紙の束を受け取り、口を閉ざしたまま文面を読み込んだダナンは無意識に煙草を咥え、火をつける。細い紫煙がリビングファンに斬り裂かれ、霧散した。


 「中層街への移住同意書と新規職業検査願、中層身分登録書類です。おめでとうございます。サイレンティウム及び中層街管理局は貴男方四名を中層民と認め、下層街からの上昇権を付与しました」


 「……へぇ」


 「栄えある事ですよ? 今まで下層から中層に上がった下層民は数えるほどしか居ないんですから。下層送りにされた人は数多く存在ますが」


 「知ってる」


 「なら」


 「これは俺一人が決めることじゃない。俺達……家族で決めることだ。少し黙っていてくれないか? マナ」


 迷いの中に表れる怒りと疑心。書類をリルスへ手渡したダナンはコーヒーを呷り、鋼の指でテーブルを叩く。


 「リルス」


 「なに?」


 「お前はどうするべきだと思う?」


 「別にいいんじゃない? 下層街から出られる機会なんてそうそうあるものじゃないし」


 「イブ、お前は?」


 「そうね……私もイブと同意見よ。貴男の意思に従うわ」


 「ステラ、お前は」


 「……」


 押し黙る少女を見つめ、答えを待つダナンが煙草を灰皿に押し付ける。


 下層街に愛着も無ければ、此処に残していく財産も無い。身一つで中層街に行ったとしても、溜め込んでいたクレジットさえあれば暫くは生活に困らない。だが、職業適性検査という一文が不穏な空気を放っていることは、ダナン含めこの場に居る誰もが気付いていることだろう。

 中層街に移住することになっても遺跡発掘者として生きられるのか、それともまた新しい職業を選ばざるを得ないのか。リルスやイブならば情報系技術者としての職にありつける。だが、己とステラは別だ。戦いと血に塗れた生き方しか知らない獣が……人の中でどう暮らせる。


 肺に溜まった紫煙を吐き、腕を組んだダナンが天井を仰ぐ。結局のところ、これは天秤に乗せられた重りの違いであるのだ。


 ステラはまだ幼い。戦う力も無ければ、これからの生き方で幾らでも姿を変えることができる小さな蛹。成虫として殻を破ってしまった己等とは違う。だからこそ……この選択は彼女の意思を尊重したい。危険を取るか、安寧を取るかを。


 「ダナンは」


 「あぁ」


 「上に、行きたいの?」


 「……」


 「ダナン達が行くなら、アタシも行くよ。けど、ダナンはそれでいいの? 自分で……納得してる?」


 「ステラ」


 「……」


 「俺はお前の面倒を最後まで見るつもりだ。独り立ちするまで、ずっとな。正直に言えばお前には下層街に居て欲しくない。分かるだろ? 俺が言ってる意味」


 「……うん」


 「これはあくまで俺の個人的な意見に過ぎない。お前の未来を決めつける権利なんて俺には一つも無いし、お前をどうしたいのかもお前自身が決めることだからな。けど、一つだけ押し付けていいのなら……そうだな、ステラに死んでほしくないんだよ……俺は」


 生きることは戦うことだ。戦いは避けられない事実であり、命に付き纏う試練のようなもの。知略を巡らせての頭脳戦も、傷を負いながらの肉弾戦も……全ては戦いの一言に集約される。


 中層街での戦いは体よりも頭を使う方が多いだろう。魑魅魍魎入り乱れる人の群れに紛れ込み、謀略を駆使しての戦い……。罠に嵌められる可能性もあれば、どうしようもないどん詰まりに行き着くのかもしれない。だが、それでも命を無作為に奪われる可能性は下層街よりもずっと低い。暴力で単純に物事を片付けられないから。


 戦わないで生きられる……そんな世界がこの世にある筈がない。犠牲も無しに生きられるほど世界は甘くない。人は生き続ける限り何かを失い、何かを捨て、何かを得る。それはステラだけに言えたことではなく、ダナン自身にも当てはまる。


 「……ダナン」


 「……」


 「ダナンは、今度は何を失うの?」


 「それは俺も分からない。いや、むしろ今まで自分が何を失って、何を捨ててきたのかも分からない。ステラが思っている以上に無くしているのかもしれないし、まだ残っている可能性もある」


 高説を垂れるほど優れた人間でもなければ、高尚な意思を持っているワケでもない。生きたいから殺して、死にたくないから生きている人間が……人の心を動かせる筈がない。


 「けどな」


 「……」


 「俺にはまだお前等がいる。ステラとリルス、イブが居るから全てを失くしたワケじゃない。お前だってそうだろ? もう一人じゃないんだ。もし中層街に行って困ったことがあったら迷わず相談しろ。下層街の手が通用しなくても何とかするからさ」


 「……アタシは、多分、怖いんだと思う」


 「あぁ」


 「環境がじゃなくて、アタシが怖いのは……これまでのことが全部無駄だったんじゃないのかって、そう感じちゃうとこなんだ」


 「そうか」


 「ダナンだって本当は怖いんでしょ?」


 「怖いさ」


 「ならッ!」


 「それでも、決めなくちゃいけないんだよ。逃げることで解決できることは何一つ無くて、向き合ってようやく解決方法を得ることができる。ステラ、お前が怖いと思うようにさ、俺だって今までの自分を否定することは出来やしない。それでも……最善の選択を選ばなきゃいけないんだよ。俺はそう思う」


 痛いのは嫌だ。辛い現実から逃げ出したい。ただ生きているだけの、平穏な生を噛み締めたい。だが、それは無理だ。不可能だ。ステラだってそれを理解しているし、下層街という過酷な環境に身を置いてきたが故に脳が拒もうと、心がダナンの話に耳を傾けてしまう。


 痛みに堪え、傷に喘ぎ、感情に呻くことが命の証であるのならば、選択が課す苦しみから逃れることはできない。拳を握り、ダナンのドス黒い瞳を見つめたステラは小さく頷き、


 「……中層街に行くこと、賛成」


 と、小さく呟いた。


 「本当に良いんだな?」


 「うん」


 「なら……俺から言うことは何も無い。マナ」


 「はい」


 「グローリアに宜しく言っておいてくれ。これから世話になるってな」


 「えぇ、お義父様も大変お喜びになるかと。御英断……感謝いたします」


 別にお前の為に選んだんじゃない、みんなの為に選んだんだ。そう嫌味を言ったダナンは全員分のサインを記し、書類の束をマナへ突き返すと真新しい煙草を咥える。


 「……リルス、それとイブ」


 二人の視線がダナンに突き刺さる。


 「ステラを頼む」


 「どういう意味?」


 「先に中層街に行ってろ。俺は……自分のやり残したことを片付ける」


 「……それって」


 命を撫でられるような悪寒と逃れられない鋼の意志。不意に席を立ち上がり、各種装備を整えたダナンは玄関の扉を開け、


 「ダモクレス、奴と会って来る」


 底冷えするような低い声で、己が宿敵とも言える存在の名を言った。


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