気がつくと、男は扉の前に立っていた。無機質で所々錆びた扉は擦りガラスが嵌められ、向こう側を覗き込むことが出来ない。
辺りを見渡してみる。ぼんやりとした光が窓の向こう側から差し込み、キラキラと照り輝く埃が舞っていた。小首を傾げ、背後を振り向いた男はギョッと目を見開き、息を呑む。
焦げたタイルが敷き詰められた通路と、砕け散ってバラバラになった階段と……。この世のものとは思えない光景に頭を振るい、頬を叩いた男は痛みを訴える皮膚を擦り、メッキが剥げたドアノブを無意識に握る。
何がどうなっているのかサッパリ分からない。そもそも己は死んだ筈……後悔を胸に抱いたまま命を使い果たし、満足した死を得ることができなかったのだ。もし此処が死後の世界であるのならば往く道は一つ……砕けた通路の先にある轟々とした大火の中だろう。ドアノブから手を離し、乾いた笑い声を上げた男―――アディシェスはもう一度己の掌を見つめた。
長い年月を生きていると並大抵のことでは驚かなくなり、それが非現実的なものであってもそうだろうと噛み砕いて飲み込めるようになってしまう。知人が戦死しようとも無理に納得し、親や子供が亡くなろうと寿命であると思い込む。人生とは得ることよりも、失うことの方が圧倒的に多いのだから。
だが、掌を見つめたアディシェスは不可思議な現象を飲み込めるほど、柔軟な思考を持ち合わせてはいなかった。現実的な視点で物事を見定め、幻想や夢を己の足で踏み躙りながら生きてきた男は、眼に映った肌が枯れ萎んだ老人の掌ではなく、若さと強さを張り巡らせた瑞々しい掌を見てしまったが故に。
「おい、何時まで扉の前で突っ立てるつもりだ? 早く入ってこいよ」
扉一枚挟んだ先から懐かしい声が響き、鋼の唸りが木霊した。
「……俺はそっちへ行くことが出来ない」
疲れ切った老人の声が喉を震わせ、アディシェスの肌がみるみるうちに枯れてゆく。
罪を犯し、戦争を求め、戦火の死を求めた己が扉の向こう側へ行ける筈が無い。地獄へ向かうのが相応しい。あの荒れ狂う大火へ飛び込み、魂が燃え尽きるまで苦しむべきなのだ。
「嫌だねぇ、真面目って奴はさ」
「……」
「苦しむべきだとか、痛みを味わうべきだとか、自分から責め苦に向かう奴はマトモじゃねぇ。んなもんは結局自己満足……自分だけが助かりたいだけさ。アディ、お前はもう十分戦ったよ。もう苦しむ必要は無い。違うか?」
含んだような笑い声が扉の隙間から漏れ出し、続いてゲラゲラと笑い転げる音が響く。二人の男のことはよく知っているし、もう片方の男は先程まで殺し合っていた人物。扉の向こう側にあの二人が集まっているのならば、己が居ても可笑しくはないのだろう。
深い溜息を吐き、大火から目を背けドアノブを握り直したアディシェスは瞼を閉じて扉を開く。すると、人工血液のオイル臭さが鼻腔を擽り、嗅ぎ慣れた硝煙の香りに心做しか満足感を得る。
「よぉ、久しぶりだな」
「……」
「ハッ、結局テメエも死んだってのか? まぁ、アイツが負ける筈がねェってのは知ってたがな。にしても……もしお前がその齢のまま俺に挑んでいたらどうなるか分かったもんじゃなかったがな」
「……本当に、久しぶりだな」
ダナン。カウボーイハットを被り、煤けたコートを着たダナンをジッと見つめ、機械体のまま椅子に腰掛けるダモクレスを一瞥したアディシェスは、空いていた肘掛け椅子に腰を下ろす。
「……状況が飲み込めんのだが、説明して貰おうか」
「まぁそんな急かすなよ、久しぶりの再会だろ? 確か……二百十数年ぶりか? 色々あったんだよ、俺も」
「どうせ時間は腐るほどある。そう殺気立つなよ亡霊」
「おいおいダモクレス、それを言っちゃぁ俺達も亡霊みたいなもんだろ?」
「命を失った死者を亡霊と呼ぶのならそうだろうが、俺とお前は奴とは別の方法で保存された情報体だ。予測出来なかったが……まさかあの機械腕にハカラのコピーが仕込まれているとはな。これもお前の計画の内か? ダナン」
「冗談、全部偶然の出来事だ。俺はネームレスほど頭が良いワケじゃないし、カーミラほど希望に飢えているワケでもない。ただ、明日の為に行動していただけ。にしてもダモクレス」
「あぁ?」
「随分と俺の息子が世話になったなぁ、どうよお前から見てダナンは」
「お前の息子として見ればまだまだだが……下層街の塵どもと比べればマシな部類だろうよ。いや、感性で言えば中層街の連中に近づいているな。だけどな」
「だけど?」
「獣が人の中で生きられると思うか? 無理だな、もし中層街に行けたとしても結局自分の檻に戻っちまう。下層街の人間は獣以下の畜生共……誰かが死んでも意に介さず、自分だけが生きていればそれでいい。そんな街で育った奴がマトモな連中の中で生きられるか? 不可能だ。違うか? ダナン」
「そうだな、お前の言う通りだダモクレス。だが、人に触れた獣は違う。人が織り成す社会の中でも生き残ろうと藻掻くもんさ。そうだな……俺が言うのも何だが、一緒に生きてくれる奴さえ居れば違うと思うぜ?」
「死人が言うかね、それを」
「死人だから言えるのさ」
「違いねぇ」
悪党のように笑い合い、ウィスキーを呷ったダナンは呑みかけの瓶をアディシェスへ放り投げる。銘柄は『Wild Turkey』戦前の店先によく売っていた酒だ。
「懐かしいな、また」
「好きだったろ? その酒」
「……味なんて忘れたよ」
「酒を味で語る奴なんざぁカッコつけたお坊ちゃまか、仕事で酒を呑む評論家様だけさ。酔えるか酔えねぇか。それが酒って奴の魅力だと思うね、俺ぁ」
「一字一句同じことを言うな貴様は。だが、そうだな……酒は呑んでこそ意味があるのかもしれん。何もかもを忘れて寝たい日は何時も」
「呑んでいた。そうだろう?」
「あぁ……」
終わらない戦争に疲れ、前線で開けた酒の香りは血の臭いで満たされていた。
憲兵として抵抗者を痛めつけ、その家族を皆殺しにした日に嗅いだ酒は、硝煙の香りに濡れていた。
塔へ移住する者と箱舟に残す者を選別した日に呷った酒は、苦味だけが残されていた。
ウィスキーをグラスに注ぎ、揺らめく水面を見つめたアディシェスは一思いに酒を呷り、熱い息を吐く。久方ぶりに呑んだ茶褐色の液体は、血流に乗って瞬く間に全身を巡るとこの手に握った記憶を掘り起こす。
「……昔」
「あぁ」
「箱舟に住んでいた頃だ。俺には妻と娘が居た」
「そうか」
「名前は……随分と昔のことだ、顔も覚えていないし、全部忘れてしまった。笑えるだろ? やっとの思いで手に入れた家族のことも、愛した女の顔も、結婚まで見届けた娘の顔も……全部忘れたんだよ、俺は。頭に残っているのは……戦争と殺しの記憶だけ。あぁ……ダモクレスの言う通り、俺は過去に残された亡霊なんだ」
亡霊……その言葉がピッタリだ。否定しようが無い。生きている内に成すべき事を成せず、ズルズルと悔恨を胸に秘めながら生きてきた日々。生前の己は生きた屍と呼ばれても仕方のない人間だった。
「娘が子供を産み、その子供がまた子を産む……普通なら喜ばしいことだ。己の血が連綿と続き、その時代を担う可能性に希望を見るべきだった。だが……俺はそれが不安でしなかった。もし子供達が俺達の仕出かした罪を見たらどう思うのか、それを隠したかった。認めたくなかったんだ。だから」
「権力を持つ人間の犬になって、真実を知ろうとする者を殺して回った」
「……」
グラスを握り締め、俯いたアディシェスを見つめたダナンは頭を掻きながら深い溜息を吐き、
「アディシェス、お前を裁くのは俺でもないし、ダモクレスでもない。もっと言えばお前が殺した連中にも裁く権利は無いんだろうよ」
「どうしてそう言える」
「言っただろ? 俺は屑の一人勝ちは許さないって。責任を取らせるまで子々孫々その行方を追って、必ず償わせる。まぁ端的に言えばなんだ……お前はもう自分自身を許してやれよ。なぁアディシェス」
震える男の肩を力の限り叩いた。