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帰るべき場所 上

 照った血が半壊したビルの縁から滴り落ち、熱傷が目立つ男の頭を軽く小突く。


 焦げた右腕と腐った左足、溶け落ちた左目……。男は下層街居住区の裏路地に住む浮浪者の一人であり、住む場所を持たない人間だった。その日を生き抜くために道端に転がる死体から臓物を抜き、年端もいかない子供を攫っては歓楽区に売る毎日。底辺の中の最底辺、下層街では弱者と一括りにされる男は左手に持つ拳銃を蟀谷に当て、引き金に指を掛ける。


 男の身体は時間とともに腐れ落ち、血の巡りに乗って全身に毒素が行き渡る。丸焦げとなった右腕は最早痛みの感覚が失せており、腐臭を放っては肉がドロリと剥がれ落ちていた。


 生きているのが不思議なくらいだ。普通の人間ならばこの状態になってしまったら命を落とし、悶え苦しんだ挙げ句目を見開いて絶命しているだろう。だが、男は生きていた。激痛に苛まれようとも思考を回し、ただ一心不乱に死を求め拳銃の引き金を引こうとしていたのだ。


 何故男が生きているのか、それは彼の体内に入った毒素がナノマシンを媒介にした致死性ウィルスだから。クリフォト汚染によって遺伝子と細胞を組み替えられ、楽に死ねない身体となった男は半死半生のまま、肉が腐り溶けていくまで痛みの中で生きてゆく。殺してくれと叫ぶ舌さえ失い、懇願もできず。


 確かに己は人に胸を張れるような生き方をしていない。子供を売り払ったことだって、人を殺して臓物を抜いたことだって、それは生きるためには仕方のないことだった。下層街の弱者であれば人身売買と臓器売買は避けられない。己がこんな目に遭うのならば……他人だって苦しむべきだ。こんな理不尽が許されていい筈がない。


 揺れる目玉を周囲へ巡らせ、腐りかけた赤子を抱く身体の右半身が焦げた女を見る。今にも死にそうな女は力なく倒れ、その衝撃で赤子の肉が弾けて散った。


 ザマァないと笑みが溢れてしまう。苦しむ人間を見れば心が踊る。もっと痛みに呻けと焼けた喉から呪詛が漏れ、苦しみ抜いて死んでしまえと悪魔が嘯いた。男は拳銃の銃口を蟀谷から引き離し、女へ照準を合わせると引き金を引く。


 乾いた銃声が廃墟群に木霊し、女の頭が潰れたトマトのように弾け飛んだ。細かな肉片と脳液に浸った脳漿が瓦礫に飛び散り、赤熱する瓦礫に焼かれた。ヒタヒタとか細い笑い声をあげ、上手く動かない二肢で女の死体に這い寄った男は、鮮血を顔面に塗りたくると熱い息を吐く。


 生きていた人間の血に興味を持ったことなど一度もない。流れ落ちる血の鉄臭さにも慣れず、真正面から人を殺したことが無い男にとって、死は身近でありながら何処か遠い存在だった。しかし、苦痛の中で知る血の味はどうしてこうも甘美であるのだろうか。もっと早くに知っていれば、己もまた強者の一人として生きられたのではないのだろうか。


 もしもの可能性が一つ浮かんでは痛みに押し潰され、消えてゆく。変えられない過去を想像するのは逃避であると同時に、生への執着である。女の肉に爪を立て、喉の渇きを癒すかの如く血を啜った男は頭に強い衝撃を受け、視界を滅茶苦茶に回す。


 「何処を見てもまぁ死体ばかりだ。セリー、防護マスクを外すなよ? お前は俺みたいに完全機械体じゃねぇんだからよ」


 「分かってる。言われたことは状況を見れば理解できるぜ親父。で、ダモクレスの旦那は本当に生きてんのか?」


 「死んでたら旦那の部品を使い回すし、生きていたら修復して組み直す。組織は崩壊したが……また一から始めればいいさ。そうだろう? セリー」


 「違いねぇ」


 男の頭を粉砕し、吹き飛んだ目玉を蹴り潰した半機械体の女……セリーは、半壊した完全機械体のデュードに肩を貸しながら廃墟の山を踏み越える。


 彼女達が属していた組織『無頼漢』は居住区を破壊し尽くした戦闘により、構成員の七割超が死亡した。ある者は許容量を超える毒素によって身体の内側から腐れ死に、またある者は戦闘の余波で肉体を構成する機械部品を吹き飛ばされ、誰かも分からぬ状態で発見された。


 生き残った構成員を集め、首領であるダモクレスを探し求めていたセリーとデュードにとって居住区に住んでいた人間は塵か屑の何方かであり、眼に映す価値すら無い。脳を頭ごと破壊され、指先をピクピクと動かしていた男は眼孔から飛び出た目玉を介し、恐るべき機械体を見る。


 「セリー」


 「何だよ」


 「……お前、もしもの話だ。もし無頼漢を……組織をもう一度立て直すとしたら、どんな組織がいいと思う」


 「さぁ? どんな風になるかだなんて首領の意向が決めるんだと思うぜ?」


 「……」


 「俺にとっての無頼漢はさ、そうだな……取り立て屋だったし、ある意味家族みたいなもんだった。そりゃまぁダモクレスの旦那は怖かったけど、ルールを守っていれば自由にしていてもいいから居心地は良かったな」


 「ならお前も結局は無頼漢から逃れられねぇってワケか」


 「そりゃぁそうだろ。だってよ……もしそれから目を背けちまえば、否定しちまえば……俺が俺でなくなっちまう。親父だってもう一度組織を組み上げるんだろ? なら同じだよ、俺達は」


 楽に生きていける保証なんてものは何処にも無い。燃え尽きた手帳を瓦礫の隙間に落とし、荒涼とした居住区を見渡すセリーの目は悲しみを孕んでいるようにも感じられた。


 「セリー!! デュードの旦那!! ボスが居ましたぜ!!」


 防護マスクで口元を覆った半機械体の男が二人に駆け寄り、建物が一際大きく崩れ落ちた場所を指差した。


 「今行く!!」


 男の後を追い、溶けた死体を蹴散らしながらダモクレスの亡骸を目にした二人は息を呑む。


 死ぬ筈が無いと思っていた。下層街最強の機械体として恐れられ、誰しもが頭を垂れる無頼漢の首領は安らか死に顔で沈黙を貫き、瓦礫の波に身を寄せていた。


 この時の無頼漢構成員の胸には、復讐心や悲哀といった感情は存在しなかった。ダモクレスを殺した人間を亡き者にしようとも考えず、彼の仇を見つけ出して八つ裂きにしようとも思わない。何故なら、最強最悪と謂われるダモクレスを打倒した人間こそが下層街では最も正しく、手を出してはいけない強者であるから。


 ダモクレスはその強さを以て無頼漢を纏め上げ、ルールの違反者には無慈悲な死を以て報いていた。誰がどんな立場であろうとも一切の贔屓はせず、死は彼なりのケジメの一環であったのだ。最強の独裁者は顔も知らぬ誰かに殺され、満足して死んだ。それを知っている故に無頼漢構成員は一抹の安堵を得る。


 「デュードの旦那、俺達はこれから」


 「言うな」


 「……」


 「馬鹿みてぇに復讐心を抱くんじゃねぇぞ? ダモクレスの旦那……ボスが死んだんだ、もう俺達には前みてぇな影響力は無い。もし復讐手帳を持ってるなら、全員手帳は捨てろ」


 「しかし、それじゃぁこれからどうやって生きていくんです? 舐められちゃ敵わないっすよ、俺等は」


 「安心しな、一から組織を作るのは一度経験してることだ。だから……もう一度やり直す。今度はもっと上手くやる。やり方を変えて、な」


 無頼漢が力を持ち、下層街の一角を支配できたのはダモクレスの存在があってこそだが、彼の圧倒的な武力の影で組織を支えてきたデュードには、組織運営のノウハウが蓄積されていた。構成員を見渡し、煙草を口に咥えたデュードは紫煙を吐き出すと、


 「お前等は家族だ。どんなに薄汚れていても、身体が機械に置き換わっていても、俺はお前等を見捨てねぇさ。だから、俺に付いて来る奴は来い。気に食わねぇ奴は去れ。どうするかは……お前等が決めろ」


 誰一人としてこの場を去ろうとしない構成員へ笑みを浮かべ、


 「帰る場所、作らなきゃな」


 セリーの肩を叩くのだった。


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