どんなに傷付いていたとしても、今にも崩れ落ちてしまいそうな精神を抱いていたとしても、足が動く限り進まざるを得ないのだろう。
腐った死体と焦げた死体、瓦礫に張り付いた肉片がもぞもぞと蠢き、やがて電池が切れた玩具のように動きを止める。バイザーが割れたガスマスクで顔を覆い、イブの肩を借りたダナンは鮮血が混じる咳を吐き、黒ずんだコンクリート片を爪先で退かす。
「ダナン、大丈夫? 少し休んだ方が」
「問題無い、疲れているだけだ。イブ、お前の方こそ」
「貴男よりもマシよ、そんなになるまで戦っていないんだもの」
「そうか……」
毒素によって汚染された空気は常人には猛毒で、数回呼吸を繰り返すだけで肉体の内側が腐り始める。辺りに散らばる死体は皆毒素の影響で生きたまま腐り、頭蓋に収まる脳が死を理解しない限り生きる屍として残り続けるだろう。尤も、ルミナを宿す己等には関係の無い話だが。
「まだ歩ける?」
「……あぁ」
「そ、なら良かった。嫌よ? こんな地獄で貴男を背負いながら一人ぼっちになるなんて。あと少しなんだから……ダナン?」
ガスマスクのフィルターから血が零れ落ち、地面に滴り落ちる。目元に疲労の色を浮かべ、虚ろな眼で前だけを見つめていたダナンは繰り人形の糸が切れたかのように膝を曲げ、イブの肩から滑り落ちた。
「ダナン⁉ ちょっと、言った傍から……あぁもう! しっかりしてよね!!」
「……」
喉が乾いていた。言葉を発しようとも舌が顎に張り付き、上手く喋れない。大丈夫だとイブの肩を叩こうとも腕は鉛のように重く、機械腕もまた脳から発せられる電気信号を読み取れなかった。
死にはしない。何となくだが、そんな気がした。ただ身体が疲労の限界に達しただけであり、時間が経てばルミナが肉体を細胞単位で修復してくれる。だから……少しだけ、この地獄の中で休ませてくれ。時が静止した泥水のように、眠らせてくれないか?
「仕方ないわね……ッ!」
銀の翼がダナンの身体を包み込み、罅割れた装甲から火花が散った。ダモクレスに破壊され、アディシェスとの戦闘で半壊した銀翼はルミナ同様時間と共に自己修復される。しかし、大人一人……それも脱力した成人男性を抱えるのは流石に負荷が大きい。
「何だか、貴男と私が一緒に戦えば毎回背負ってるわね。そう思わない? ダナン」
ダナンからの返事は無い。当然か、あれだけルミナを酷使したのだ。此処まで歩いてこれた方が奇跡に近い。
「家に着くまでには起きなさいよ? ステラとリルスに心配かけたくないのならね。ま、あの二人は毎回こうして私の世話になってるの知らないか。あぁ、別に面倒だなんて思ってないわよ? 仕方ないじゃない、動けるのは私だけなんだもの」
独り言を呟いたイブは瓦礫の山を跳び越え、明りが灯る治安維持軍駐屯地を見据える。
「本当に……私も弱くなったわね、こうして独り言を声に出すなんて。らしくないわ」
遺跡……箱舟の残骸に居た頃は言葉を話す必要なんて無かった。侵入者を殺し、過去の記憶をなぞるように生きていただけ。歩むべき道は見えているものの、その道を踏み出す方法が分からなかった。ずっと……一人で。
「私を変えた責任、ちゃんと取りなさいよ? あ、リルスも……うん、貴男の近く、信じてくれる人を守りなさいよ? 家に帰ったら」
そこでハッと息を飲み、クスリと笑う。己にも帰る場所……家ができたのだ。孤独を噛み締める必要も無いし、仮初であったとしても家族が居る。それは……なんと幸せなことだろう。首を振り、瓦礫を降りようとしたイブは銀翼を背後へ向けた。
「盗み聞きだなんて趣味が悪いわね。姿を見せたらどう? 気付いてるんだけど」
七色の瞳が瓦礫の破片を射抜き、その裏から歩み出した白装束の少女を睨む。
「……何時から気付いていたのかしら?」
「ダナンが眠る少し前、私達のこと見ていたんでしょう? 貴女……劣化ルミナの保持者ね? 名前は」
「キムラヌート。そう身構えないで貰える? 別に今敵対するつもりはないから」
やれやれと肩を竦め、腐った死体の肉片の一部を保存容器に収めた少女は、眠りこけるダナンを一瞥すると「へぇ、ソイツがアディシェスを殺した人間?」興味深そうにガスマスクのバイザーを上げる。
「……目的を話してくれたら嬉しいんだけど」
「目的? あぁ、私のやるべき事ね。端的に言えばあの戦争中毒が執着した機械体と、アイツを殺した人間に興味があっただけ。あぁ、貴女の名前は必要無いわ。だって、知ってるもの」
殺すか否か。イブ一人ならば迷わず銀翼を振るい、目の前の少女を細切れに切り刻むだろう。だが、ダナンの身の安全を考えるのならば不用意な戦闘は不可能だ。白装束の懐からメスと注射器を取り出し、腐乱死体の解剖を始めた少女は赤黒い血液を採取する。
「それにしても」
「……」
「感心したわ」
「どういう意味?」
「ダモクレスとアディシェスの同時撃破。普通なら不可能なの。 その機械腕の力があっても余程運が良くなければ死んでいたのはその男の方よ? せっかく見つけたルミナの適合者を殺すような真似をする貴女の頭も理解不能だし、死ぬかもしれない戦いに飛び込んだ男の方も意味不明。そうね、今回の戦いは不確定要素が積み重なった結果とでも言うべきかしら?」
「偶然って言いたいワケ?」
「ある意味必然ね、偶然なんて言葉は嫌いなのよね」
「……同感」
瞳孔が開いては閉じ、視神経が繋がった脳を死体から抉り出したキムラヌートは血塗れの手袋を脱ぎ捨て、クスクスと笑う。その笑顔には感情が乗っておらず、感情が筋繊維へ伝達される過程をすっ飛ばしているようにも感じられた。
「オリヴィエ」
「……」
「私の名前よ、キムラヌートなんて名前は教団内で呼ばれる固有名詞よ。少し話しただけなんだけど、私達は良い友達になれると思うの。どう? もし友達になってくれるのなら教団の情報を教えてあげてもいいわよ?」
「魅力的な提案ねオリヴィエ、けどお断りするわ」
「あらどうして? 合理的な選択をすると思ったのに」
「敵とは仲良くしない主義なの。貴男が劣化ルミナを手放すのなら話しは別だけどね」
「残念、劣化ルミナは私の手じゃどうにも出来ないのよね」
キムラヌート……否、オリヴィエの言葉に嘘は無い。一度埋め込まれた劣化ルミナは銀翼の摘出手術を行うことで取り出すことができる。つまり、彼女は現段階で劣化ルミナを手放すつもりは無いし、もし無理矢理にでも取り出すのならば戦闘も辞さないという構え。此方が戦えないことをいい事に。
「じゃぁね」
「帰るつもり? お土産も無しで?」
「本当に顔を見に来ただけだもの。戦うつもりなら受けて立つけど?」
「さよなら、もう現れないで欲しいわね」
「連れない女ってよく言われない?」
白装束を翻し、片手を振りながら去ろうとしたオリヴィエの目がダナンを一瞥する。
「ダナン、ねぇ」
「当分起きないわよ? 興味があるのなら起きてる時に来て頂戴。その時が貴女の最期だろうけど」
「少し前……アディシェスが言ってたのよ。ダナンに興味を持てって。けど、そうね……二種類の劣化ルミナを鎮圧した人間と敵対したくないわ」
「……」
「ばぁい」
仄かな血の香りが鼻孔を突き、オリヴィエが風のように姿を消す。緊張の糸を解いたイブは乾いた空気を吸い込み、治安維持軍駐屯地へ向かった。