秒針が一瞬を刻み、長針と短針が時を食む。
延々と繰り返される終わり無き鬼ごっこ、時間という概念に支配される存在が人間であるのならば、時を支配するのは誰だ。そんなものは分からない。理解する必要は無い。それを知るべき時は此処に非ず、求めたとて得られぬのなら手を伸ばすことも無駄とも言えよう。
テーブルに突っ伏したまま寝入り、浅い呼吸を繰り返すステラに毛布を掛けたリルスは泥のようなコーヒーを一口啜る。壁時計へ視線を向けると時刻は午後十時を回り、ダナンがダモクレスの下へ向かってから三時間が経過しようとしていた。
「心配ですか? ダナンさんのことが」
来客用のマグカップを両手に持ち、真っ黒い水面を揺らしたマナが静かに口を開く。
「ダモクレス……知っていますよ、下層民なら誰もが知る存在です。完全無敵、最強最悪、無頼を信ずる狂人……。彼に勝てる人間は存在しない。ダナンさんがどれだけ強くても、殺される可能性は否定できません。リルスさん、貴女は」
「勝ち負けじゃないのよ、多分」
「……」
「単純な勝負、殺すか殺されるかの戦いならダナンはとっくの昔に死んでるわ。アイツは生かされていただけよ、ずっとね。決着をつける……重い言葉だと思わない? マナ」
長針が進み、短針もまた数字を覆う。重苦しい空気を貫くように時報の調が部屋に鳴り響く。
「ダモクレスが勝っても、ダナンが負けても、それは結局一つの終着点なんだと思うの。どっちが死のうが生きようが、私達が知らない場所で事が進む。神様でもない限り、全てを知ることが不可能であるように……ね。結果だけを知るべきなのよ、私とステラは」
「不安じゃないんですか?」
「不安よ、当たり前じゃない。下層街で絆が塵屑同然であっても、ダナンとは長い付き合いなの。不安じゃないなんて言う方が可笑しいでしょう?」
気にもしない、知らぬ存ぜぬ、どうしようもない。コーヒーカップを揺らすリルスの手は忙しなく指を組み換え、何時もよりコーヒーを飲むペースが速いように感じられた。頻りに時間を確認し、玄関扉の音に耳を傾ける少女は椅子から立ち上がり、キッチンへ向かう。
「ずっと」
「はい」
「こうするべきだと、そう思っていたわ」
「……」
「結果を先延ばしにしたって、結局困るのはダナンの方だった。ダモクレスが見逃してくれす筈も無いし、もし彼を放って下層街から去ろうものならもっと面倒な事に巻き込まれていた筈よ。ある意味これは身から出た錆ね。決断を先送りにして、迷っていた結果。本当に……嫌ね、待ってるだけってのは、本当に」
「貴女も後悔してるんですか?」
「えぇ」
「ならどうして決断を迫らなかったんですか? 貴女ならダナンさんを動かせた筈です。戦えと言わなくても、何かしらの情報を彼に与えて選択を迫ることができた。違いますか? リルスさん」
「それじゃ意味が無いでしょう?」
「意味が無い?」
「だって、ダナン自身が選ばなきゃアイツが前に進めないんだもの。意思の問題でもあるのよ、これは」
言い訳でもなければ、自己正当化の方便でもない。リルスの話したことは心の問題でもあるのだ。どうにかできる問題を対処せず、戦いを終わらせなかったダナンの未熟さを指摘する言葉。生きたいと願おうと、死にたくないと祈ろうと、終わらせなければ始まらない。過去との決別は済まされないのだから。
死のリスクを回避しようとするのが人間の生存本能ならば、ダモクレスとの対峙を避けていたダナンは生物として正しい選択をしていたのだろう。無用な戦いを避け、必要な時にだけ全力で抵抗する。外敵から身を守るハリネズミのように毛を逆立たせ、獰猛な牙から逃れる行為。それは生物であれば合理的な行為だが、人であるのならば話は別。
「ダナンは獣じゃないわ、れっきとした人間よ。殺し合うために生きているワケじゃないし、狭い檻で飼い殺しにされる男でもない。戦うために命を燃やすのなら勝手に死ねと思う。殺すために銃の引き金を引くのならアイツの言葉なんて聞きたくもない。けど……やっと人間らしくなってきたダナンなら、獣じゃなくて人として生きるべきよ。アイツには」
「その価値がある。そう言いたいんですね?」
「……聡い子は好きよ」
「ありがとうございます。けど……少し驚きました」
「なにが?」
「ダナンさんを信じているんですね、リルスさんは。あぁ、特に深い意味はありませんよ? 下層街じゃ珍しいと思ったんです。他人を信用する人は」
「言ったでしょう? 長い付き合いなのよ、アイツとは」
コーヒー瓶の蓋を開け、粉をコーヒーカップに落とした瞬間、玄関の扉が開く。深い溜息を吐き「遅いじゃない、馬鹿」と微笑んだリルスは、ダナンを背負いながら現れたイブを見つめる。
「おかえり、大変だった?」
「大変もなにも死にかけたわよ、全く」
「生きているなら結構でしょう? 何か食べる? 適当に作るけど」
「私は大丈夫だけど、ダナンには何か食べさせた方がいいわね。ほら、ダナン? 家に着いたわよ? いい加減起きなさい」
低い呻き声で返事をしたダナンはガスマスクを外し、口に溜まった血を吐き出す。木目調のフローリングに血痕が染み付いた。
「リルス……か? イブ……悪い、寝てたのか、俺は」
「そりゃもうぐっすりと。一応何か食べておきなさいよね、ルミナの使い過ぎよ貴男は」
「……無茶を言う」
「グダグダ言ってないでしゃんとしなさい! あ、まだ居たのね貴女達。全くご苦労なことで」
喉奥に溜まった血の塊を咳と一緒に吐き、リルスが温め直した料理に手を付けたダナンは傷だらけの指でスプーンを握る。
「ダナン」
「……」
「決着はついた?」
「……あぁ」
「納得は?」
「……どうだか」
「何よ、ダモクレスを殺し損ねたの?」
「いいや……そういう意味じゃない」
「じゃぁどういう意味よ」
「……満足したのはダモクレスの方だ。そして、納得出来なかったのは……アディ。俺は多分……また生かされたんだろうな。奴に」
「なら」
「リルス、ダモクレスは死んだ。あの完全機械体の狂人は……今やただの鉄屑、人の形をした鉄塊。勝負には勝ったが、何だか負けた気分だよ。俺は」
「それでも終わったんでしょう? ダモクレスとの関係は」
「……まぁな」
咳き込みながら料理を飲み込み、一心不乱にがっついたダナンはマナの視線に気づき、手を止める。
「何だ?」
「本当にダモクレスを殺せたんですか?」
「殺せたというよりも……奴の自滅だ。俺が最後に手を下したわけじゃない」
「じゃぁどうやってダモクレスは」
「第三者の介入が……いや、それは俺の方……違うな、どっちもどっちか。けど、もう片方を殺す為にエネルギーを提供したんだ、ダモクレスの方が俺に」
「ダモクレスが貴男を助けたと?」
「……さぁ、どうだか」
スープを飲み干し、溜息を吐いたダナンが古びた機械腕を見つめ、天上を見上げる。
「俺は……命を拾わせて貰ったんだろうな、ダモクレスに」
「……」
「一つ道を間違えていれば、選択を誤っていたら、俺が奴の立場になっていた可能性もあった。けど、そうならなかった。結果だけ見れば……やっぱり負けたんだよ、俺は。最後の最後で、奴を俺の手で殺すことが出来なかったんだから。勝てよなんて言われたが……勝負に勝って、試合で負けたとも言えるな」
食後のコーヒーを飲み、煙草を口に咥えたダナンは換気扇の下まで歩み、
「納得も、満足も、戦いの後には残らないなんて……とんだ皮肉だと思わないか?」
と、疲労が滲む笑みを浮かべた。