グローリアとのホロによる会話を終えたダナンは、先が短くなった煙草を灰皿へ押し付け、リルスが淹れた泥水のようなコーヒーを啜る。
砂糖もミルクも入れていないコーヒーは、舌に残る苦味を香りで誤魔化し喉を通って胃へ落ちた。喉奥過ぎれば熱さ感じず……そんな言葉は単なる感じ方の違いであり、湯気が立つコーヒーを冷まさずに飲み込めば食道を焼くのは当然のこと。顔を顰め、マグカップの取っ手を強く握る。
「ダナンさん、お義父様とお話をして」
「善処する。今はこう言っておく」
「では」
「これ以上は俺一人で決めることじゃない。俺一人の決定が、家族全体の意思決定とは言えない。そうだろ? なぁ、マナ」
半壊したアーマーを外し、各種装備品を自室へ放り込んだダナンは耐久スーツを脱ぐ。
「淑女の前でそんな格好を」
「淑女? あぁ悪いな、此処に俺が想像するような淑女は居ない。頬を赤らめる女も居なければ、男の身体を見て目を背ける奴も誰一人として居ないんだ。ありきたりなセリフで話を逸らそうとするなよ」
「貴様……黙って聞いていれば何だその言葉は。貴様のような下層民、サイレンティウムが本気を出せば」
「何時でも潰せるってか? いつの時代、どんな場所でも、虎の威を借る狐……強者の力を借りて立つ奴は。お前は違うのか? イスズ」
「そんな安い挑発に乗るとでも思っているのか? 下種が」
「さぁ? それはお前次第じゃないのか?」
蟀谷に青筋を浮かべるイスズを他所に、ダナンは風呂場の戸を開けるとシャワーを浴びる。
今すぐにでも暗器を抜き、奴の首を落とすべきか? それとも中層街へ向かう決意を固める前に命を奪ってしまおうか? 殺意を滾らせ、苛立ちを冷徹の仮面で取り繕ったイスズをマナの瞳が居抜き、その瞳の奥に見える言葉を汲み取ってしまう。
殺すか否か、それは貴女が決めることじゃない。全てはお義父様、サイレンティウム総帥が決めること。個人の感情に流されるべからず。
憤りも憎しみも抱かず、ただ事を進める為にマナは下層街へ降り、此処に居る。彼女の意思はグローリアの意思であり、グローリアの意思はサイレンティウム及び中層街の総意である。それを個人的な感情で無に帰し、破壊することなどあってはならないのだ。ダナンがどんな言葉を吐こうとも、選択を決めかねようと、無意味であらねばならない。
サイレンティウムという巨大複合企業の前では、個人の意思決定は無価値である。どんなに考え抜いた選択であったとしても、その思考はサイレンティウムが保有する超高機能人工知能『S.R.P.M』によって、管理誘導された結果に過ぎない。
個が持つ能力を最大限に発揮できる職業と、群体に属する為に組み込まれた億万通りの遺伝子適正配置。ダナンがどれだけ抗ったとしても、『S.R.P.M』を握るサイレンティウムの決定から逃れる術は無い。中層街は徹底的に管理された秩序の中に混沌を混ぜ、必然的に犯罪が起こり得るように仕組まれているのだから。
故に、マナも焦りの色を顔に浮かべない。頭脳明晰な彼女は既に次の手を考え、最善の一手を打とうと画策しているのだろう。ダナンが素直に首を縦に振る方法を見出し、その為に目の前で眠る少女を利用する。彼が最も気に掛けている少女、ステラをダシにして思い通りの結果を得る。だから此処での暴力は最悪の手に近い。
イスズはスーツの襟首を指で弄り、ジットリと汗ばんだ肌を撫でる。もしあの時、ダナンの挑発に乗って暗器を抜いていたら、血が流れるような事に手を出していたら、己はサイレンティウムの意思に歯向かう愚行を犯していた。雇われている立場でありながら、雇い主の意向に沿わぬ行為はシークレット・ニンジャとして失格だ。ギリギリで踏み止まった殺意に喝を入れ、両手を後ろに組んだイスズは冷えた汗を額に滲ませる。
「ところで」
マナが柔らかい笑みを浮かべながらステラを一瞥し、コーヒーを一口啜る。
「一つ私から提案なのですが、リルスさんとイブさんはステラにより良い環境を、安心して勉学に励み、素晴らしい未来を与えてあげたいと思いませんか?」
「綺麗な言葉ね、ダナンに聞かせてあげれば?」
「すみません、これはサイレンティウムからではなく、私個人の言葉だと思って下さい。ダナンさんは随分とステラを大事にしている。彼女の為ならば殺人だって厭わない。彼の意思は下層街にそぐわない……リルスさんが仰ったように獣ではなく、人の感性に近いものです」
蛇のように絡みつき、牙から滴る毒液を思わせる美しい事実。マナは不自由な足を引き摺り、ステラの隣に座ると傷んだ髪を指で梳かす。
「ステラの考えも、他人に対する態度も、既に下層街で生きていける強度ではない。それはお二人も重々承知の筈。もしこの娘が今も一人で生き、路地裏の死体から内臓を抜くような仕事をしていれば下層街でも生き残れた。もし肉欲の坩堝に捕まり、売春婦か狂人の玩具で居られれば、ほんの少しだけ長生きできたかもしれない」
「もしもの話しね、興味無いわ」
「あくまで可能性の話しですよ、単純な。しかし、彼女を変えたのはダナンさんです。彼が居たからこの娘は運良く人で生きる権利を得て、貴女方が居たから居ない筈の家族を得ることができた。私が言いたいのは責任と義務の話しです。どれだけダナンさんが中層街へ行くことを拒もうと、下層街で生きていこうとしても、この二つから目を背けることはできない」
少女の瞳が妖しく揺らめき、隠し持っていた毒牙を剥く。
「これは脅しでもなく、妄想で事を話しているワケでもありません。事実を述べているだけ……私というケースを元にして。だから、ダナンさんをよく知るお二人からも中層街の件を考慮して頂きたいのです。より良い明日の為に、是非」
「……いい性格してるわね、貴女」
「お褒めの言葉として受け取っておきます。では……イスズさん」
「はい」
「戻りましょう。私の用事は済みましたので」
椅子から立ち上がり、マナがアタッシュケースを押し始めた瞬間風呂場の戸が開き、ダナンがタオルで髪を拭きながら現れる。
「帰るのか?」
「えぇ、お義父様も待っていますので。ダナンさん、上で良い返事をお待ちしております」
「泊まっていけばいい」
「……どういう意味でしょう?」
「泊まれと言ってるんだ。今日はもう遅いだろう? いくらグローリアの身内と言えど、今の時間じゃエレベーターに乗ることは難しい。だから泊まっていけと言った。何も可笑しいことじゃない」
マナに対して完全に興味を失ったダナンが、欠伸をしながらシャツに袖を通す。そのままステラの肩を揺すり、目を瞬かせた少女はハッと息を飲む。
「ただいま、ステラ。帰ったぞ」
「……ダナン?」
「もう決着はついた。少し手間取ったけど……あぁ、終わった。全部」
「心配、したんだよ」
「……悪い」
「怪我とか、してない?」
「死にかけたが生きてる。うん」
心の何処かでダナンが必ず帰ってくると信じていたのか、死ぬはずが無いと思っていたのか、疲れたような笑顔を浮かべたステラは小さく「おかえり、ダナン」と呟いた。
「あぁそうだ、一晩だけコイツ……マナを泊めたいんだが、ステラと同じ部屋でもいいか? 俺の部屋はほら……色々と物騒だからな。あまり人に見せていいもんじゃないし」
「あ、え、うん! 全然大丈夫! えっと、その前に」
「風呂には入れよ? 遺跡から帰って来てから入ってないだろ? 少し臭うぞ、血とか腐肉の臭いとか」
「言わないでよ!」
ダナンの尻を蹴り飛ばし、顔を真っ赤にしたステラはマナへ向き直り、
「ごめん! 少し待っててよ!」
風呂場へ駆け込んだ。