薄いタンクトップをパジャマの代わりに着たステラは、真新しい勉強机に向かい合う。
傷一つ無いノートと手製の教科書、矯正道具が取り付けられた鉛筆、少しだけ黒ずんだ消しゴム……。彼女が開いたノートにはミミズが這いずり回ったような字が並び、注意して見なければ分からない数字が書き込まれていた。
ホチキスで留められた教科書を開き、今日の分の学習箇所をノートに写したステラは簡単な足し算に頭を悩ませ、二桁の引き算に躓く。ページに書かれた問題を説明を基に解き終え、解答ページを開いたステラは赤ペンに持ち替え自分自身で採点を行う。そして間違えた箇所に修正を加え、次の教科を学ぶ。下層街の路地裏で育ち、まともな教育さえ受けられなかった少女は安全な部屋で学びを得る。
下層街の通りに並ぶ電子看板や商品説明文は途切れ途切れではあるが、文字の始まりと終わりを読めば何とか理解することはできる。ただし、それは虫食い状態の穴だらけ。説明文に書かれている注釈を読み飛ばし、契約概要を十分に理解しないまま押印で契約してしまえば食われるのはステラの方。下層街に溢れる欺瞞に命を奪われた人間を多く見てきた少女は、如何に自分が無知であったのかを勉学を通して思い知る。
生身の目を仕方なく機械に置き換え、字を読む為に専用のチップを脳に入れる。ボディ・チョッパー……弱者が更なる弱者に追い込まれる残酷な仕組み。人体よりも脆く、壊れやすい機械部位を得る為に自分の身体を切り売りする人間。錆びた装甲から機械燃料を垂れ流し、神経接続も切れかけた機械義肢を軋ませる人間は、強者の食い物になるべく産まれ、全てを奪われ死に至る。その人生を可哀そうだとか、どうにかしたいと思うのはただの我が儘だ。
「ステラ、そこ間違っていますよ」
「うん、ありがと」
「あぁ、あとは文法ミスですね。『百クレジットになります』と『百クレジットとなる』は似た表現ですが、状況によって適切な使い方が変わります。それに、ステラは支払う側ですよね? 店員として答えるのではなく、『百クレジットを払いました』とか『百クレジットかかりました』と言う方が自然でしょう。文脈を正しく理解することが大事です。」
「……」
何時の間にやらマナが教科書を片手にステラの指導役を務める。イスズが買って来たパジャマに着替え、彼女に勉強を教えていた。ステラと同い年に思えるマナは逐一彼女の間違いを指摘し、注釈を交えてペンをノートの上に走らせる。
「ステラ、掛け算と割り算の違いを理解していますか?」
「分かってるつもりだけど」
「つもりではなく、理解しているのか聞いているんです。では問います。一掛ける一は?」
「二でしょ」
「足し算であれば正解でしたね。答えは一です。何故か分かりますか?」
「……」
「掛け算とは同じモノの数を幾つ集めるかの計算です。例えばそうですね……弾丸一発をポーチから一つ取り出せば、弾は何発になるでしょう?」
「そりゃぁ……一発でしょ?」
「そうです。なら二発をポーチから同じ数取り出せば?」
「……あ!」
「答えは?」
「四!」
「正解です。なるほど、えぇ、人にモノを教えるということは私自身も理解していなければならない。勉強になりました。ありがとうございます、ステラ」
ホチキス教科書をパラパラと捲り、割り算の説明に目を通したマナは赤ペンを取り出し、注釈と例えを書き加える。
「にしても」
「はい」
「アンタも元は下層街出身だったんでしょ?」
「えぇ」
「どこで勉強を教えて貰ったの?」
「歓楽区で生きていた頃はそういう機会を得る事はできませんでしたね。私が学びの機会を得たのはグローリア総帥……失敬、お義父様に引き取られてからです。何も面白い話なんてありませんよ」
「へぇ、なら中層街でもこうやって家族から勉強を教えて貰うんだ」
「いいえ?」
「え? ならどうやって勉強するのさ」
「学校に通うんです」
「学校?」
「下層街には学校なんてないから、ステラにはピンとこないかもしれませんね。でも、中層街では子供はみんな六歳から十八歳まで学校に通えるんです。それが“権利”として保障されていて、逆に親や社会は子供に教育を受けさせる“義務”を負う。いわば循環する仕組みですね……分かりやすく言えば、種を植え、花が咲いたら、また新しい種を植えるように、知識や学びが次の世代へと受け継がれていくのです」
「存続性ってワケ?」
「聡いですね、けど私は違うと思いますよ」
「どうして?」
「ただの責任の後回し……大人の間違いを子供に押し付ける為に教育を与え、それを通して幼少期から思考及び思想を捻じ曲げる。綺麗事じゃ社会は回りませんので」
「……アンタ、堅物って言われたことない?」
「世間一般の大人から見れば可愛くない子供でしょうね。私のことを好きだと言う人間は余程の色物……変人の類ですよ」
「やっぱり」
ノートを閉じたステラはリルスが自作したノートPCを開き、電源を入れる。拙い手つきでキーを打ち、バイオス設定からOSを起動すると『ネフティス』を呼び出す。
『こんばんわステラ、教育プログラムは終わりましたか?』
「うん、ネフティスに聞きたいことがあるんだけどいい?」
『どうぞ』
「ダナンは……あの、ダモクレスと戦って大丈夫だった?」
『大丈夫の定義が些か不透明でありますが、貴女が考えている結果から云えば勝利したと言えるでしょう』
「戦いは」
『ステラ、貴女が戦いを気にする必要はありません。ダモクレスとの戦いはダナンの問題であり、彼が決着をつけるべき事柄です。今貴女に必要なのは、中層街で生活する為の勉学及びルールの学習です』
赤い髪を一つに纏め、眼鏡を掛けた仮想の少女は呆れたように溜息を吐く。ルミナ・ネットワークを介してノートPCに組み込まれた戦闘支援AIネフティスのマルチ・プログラムは、今後の学習範囲をデスクトップに表示する。
『ステラ、リルスより伝言です。明日は遺跡発掘の仕事から戻り次第、ダナンと共に服屋へ向かい制服の寸法を終わらせること。学習範囲は初等部三年の教科を学び、問題を解くこと。いいですね?』
「分かったって、言われなくてもちゃんとやるけど?」
『そうですか』
「そうだよ」
プツリとプログラムが閉じ、必要最低限のショートカットが並ぶデスクトップが表示される。マウスカーソルをワード・ソフトの上に置いたステラはタイピング練習を始め、ゆっくりとキーを叩く。
「それにしても」
「なによ」
「勤勉ですね、ステラは」
「生きるためだもん、真剣にもなるでしょ」
「いいですか? その勤勉さと学習行為に対する貪欲さは貴女の武器に成りえます。中層街の私立学園……私が通う学校に貴女ほど真面目な子供は居ませんよ?」
「なんで? 勉強しなきゃ死ぬのに?」
「生死に関わらないと無意識に思い込んでいるんですよ。何かあったら親や大人が問題を片付けてくれる。自分たちの身の安全は保証されている。親の権力や財力を自分の力だと勘違いして、どうしようもない愚行に走る。
学校という小さな箱庭を世界の全てだと思い込み、教員さえ雇われの立場であることを忘れてしまう。閉鎖的環境の中では、誰もが自分を特別だと思ってしまうんです。だから、貴女のような勤勉な娘は直ぐに自分の持っている牙を自覚するでしょう。えぇ、私のように」
ジッとステラを見つめ、妖艶な笑みを浮かべたマナは白く細長い指で少女の頬を撫で、
「ステラ、貴女は金の卵……いえ、誰かの接ぎ木になる気はありませんか? もし貴女が望むのであれば、私が中層街の生き方を教えましょう。貴女が憧れているダナンさんのように、強く生きられる術を授けましょう。それはとても、とっても魅力的な提案だと思いませんか? ねぇ、ステラ」
甘く、芳しく、熟れた果実を思わせる香りを以て、ステラの肩を抱いた。