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友達 中

 冷えた二の腕と頬を擽る絹糸のような髪、少女特有の仄かな甘い香り。ステラの首筋を細い指でそっと撫で、瞳に妖艶な色を宿したマナは「貴女からは同じ臭いがするんですよステラ。生きたいから学び、死にたくないから力を得ようとする。けど、力の使い方が分からないから、牙を剥くことができない。そうでしょう?」小さな耳に生温い吐息を吹きかける。


 蠱惑的な声が脳を揺さぶり、心の奥底に蠢く黒い感情を刺激した。力への渇望を声の柄杓で掬い上げ、劣等感に囚われたステラは、マナの言葉に強く惹かれてしまう。強くなれるのであれば、牙を持たぬ者でも強者を食い破れる術があるのならば、彼女の欲望は簡単に奈落の底へ転がり落ちる。堕落の沼に溺れるドス黒い力を得る為に。


 ゾッとするような甘美な囁きを発するマナの顔をステラの眼は映さない。何故なら、彼女は己の顔を見せないよう、背後から腕を回しているから。悪意に染まる罪人を思わせる醜悪さも、欲望の炎を燃え上がらせる狂気も、その全てを隠し通すマナは学園の生徒を籠絡する手口でステラに迫る。


 「ステラ、きっと貴女はこう考えていることでしょう。何故私がこれほどまで協力的なのだろうと。何故自分程度の存在を気にかけているのだろうと。答えは簡単です。ただ友達になりたいのですよ、私は。友達として持てる全てを与えたい。貴女にはそれだけの価値がある。違いますか? ステラ」


 「……堕ちろって言いたいのアンタは」


 「いいえ? ただ手を握ってくれたらそれでいい。私の言葉に頷いてくれるだけで満たされる。それだけで私は」


 ガラリと机の引き出しが開かれ、鈍色の拳銃が取り出される。銃身をスライドし、弾丸を装填したステラはマナの耳へ銃口を向け、


 「あんまり人を舐めないでくれる? あぁそうですかって頷くワケないじゃん。なんだかイライラするよ、アンタの言葉を聞いてると特にね」


 静かに離れたマナへ向き直る。


 「物騒ですね、銃を持ち出すなんて」


 「こうでもしなきゃ離れないんでしょ? ならこれが最善手じゃん」


 「撃つんですか? 私を」


 「……ダナンなら撃ってたかもね」


 アイアンサイトの照準をマナの眉間に合わせ、ベッドに押し倒したステラは銃を構えたままナイフを逆手に持つ。一歩でも動いたら、変な動きをしたら撃つ。言葉無く行動で殺意を示した少女はゆっくりとマナの隣に座り、引き金から指を離した。


 「で、何だっけ? アタシに力をくれるって話?」


 「……本当に撃たないんですか?」


 「もし一歩でも動いたら、変な気を起こしたら撃つよ。銃が怖くないならナイフの方がいいワケ? 変わってるね、アンタ」


 「下層街の人間であれば出ない言葉ですよ、それは」


 「そうだね、だけどそれがアタシの考えだから。利害関係……リスクとリターンの勘定が合えば聞く価値があるし、アタシに不利な条件を提示されたら、アンタがどんな話をしようとも断る。うん、リルスならこうやって事を運ぶと思うから」


 「……」


 意外も意外、予測不能な計算外。少しだけ劣等感を引き出し、そこから己の思う方へステラの思考を誘導しようとしていたマナは、彼女の思いがけない言葉に嘆息する。


 中層街の人間は甘い言葉を囁かれ、自分が必要とされていることに慣れきって無意識に警戒心を緩めてしまう。ステラへ嘯いた言葉と同じ言葉を吐き、軽い身体接触を重ねれば大人も子供もマナの傀儡と成り果てる。それほどまでにマナの容姿と言葉は実年齢からかけ離れており、老若男女問わず魅了する力があるのだ。


 だからこそステラのような反応が面白い。簡単に支配されない人間が居ることに心が踊る。反骨心の塊のようなダナンと共に行動する少女は、どれだけこの誘惑に耐えることができるのか。本当にどうしようもなくなった時、どんな選択を取るのか。学園の生徒や教師、サイレンティウムに寄生する幹部連中は最早興味が失せたモルモット……拙い繰り糸で操られる木偶故に。


 「ステラはダナンさんとリルスさんがお好きなのですね」


 「……」


 「もし私の提案を受け入れてくれたら、中層街での好待遇をお約束しましょう。勿論私が手を出せる範囲……貴女の学園生活から日常生活、御友人と成りうる方も紹介させて頂きます。どうですか? 貴女の生活に何の不都合も無く、お二方の心労も減らせる合理的な方法だと思いませんか? ステラ、私は」


 「それってさ、ただ飼われてるだけじゃん」


 「……」


 「アンタはただ人の生殺与奪権を握ってみたいだけでしょ? 馬鹿にしないでよ、アタシは自分で何とかするし、ダナンとリルスには……迷惑をかけるかもだけど、誰かに世話をされたいワケじゃない! マナ、アンタって自分が賢いと思ってる。アタシを馬鹿だと思って、見下してる。……最低だよ、アンタは」


 マナの瞳から視線を逸らさず、明確な拒絶の言葉を吐いたステラはナイフの柄を握り締める。


 彼女の言葉に脳が震え、操り糸を必死に撥ね退ける姿が堪らない。同年代の、それも同じ下層街で生まれ育った少女に興味を示さずにはいられない。ステラの意思を挫くのは困難極まりないことだろう。拙い自我を確立し、他人が敷いたレールに足を乗せない少女へ柔らかい微笑みを向けたマナは、口元を押さえて静かに笑う。


 「何が可笑しいのよ。頭でもイカれたの?」


 「いいえ、少しも可笑しくありませんよ? ただ……そうですね、貴女がどれだけ私を拒絶しても、その姿が堪らなく愛おしいのです。ちゃんと二本の足で立とうとするステラを応援したい。えぇ、貴女が然るべき環境に身を置けば、無知蒙昧な中層民を変えることができるでしょう。それが楽しみでならない。ステラ、私は貴女のことが好きですよ? お義父様の次に……ね」


 「お義父様……マナ、アンタにも家族が居るの? 下層街、それも歓楽区出身なのに」


 「そうですね、驚かれるのも無理はありません。歓楽区の惨状を知っていますか? 知らないのならお教えしますが」


 正直言えば楽しい話など一つも無かった。中層街の大人達に玩具にされ、顔の生皮を剥がされのっぺらぼうとなり、声帯さえも奪われた過去の日々。子供達や乳幼児を文字通り解体し、殺しの技術だけが上達する虚無。中層街の再生医療がマナの傷をいやしたとしても、心の傷は治らない。その傷を覚えておく為に、義父へ足だけは以前のまま残すよう頼んだ。


 父の顔も、母の顔もマナは知らなかった。当然だ、物心付いた頃から商品として生きてきたのだから。いや、そもそも下層街で生きる子供達の大半は親の顔も知らずに育ち、残酷で無慈悲な生存競争を生き残らなければならない。仲間を裏切り、組織の駒として生き、生き別れの親でさえ弱者であるのならば命を奪う。そうして出来上がる存在が、弱肉強食の走狗。自嘲するような笑みを浮かべ、ステラの頬を撫でたマナは浅い溜息を吐く。



 「人と人は分かり合えません。幸福に包まれた人生を送ろうと、傷は時間と共に心を蝕み透明な血を垂れ流すのです。ステラ、貴女だってそう思うでしょう?」


 「……それは」


 「理解と愛は最も遠い感情だと言う輩が居ますが、それは違うと思いますよ私は。何故なら、本当に相手を愛したいのならば理解を深めるしか方法が無いから。理解を拒めば愛を知る術は存在し得ず、分かりたいと願えども言葉無くして愛を成せず。だから私はその言葉が嫌いなんです。鏡さえ見た事が無い人間が話す言葉……愚かしいにも程がある」


 初めてマナの感情が、己よりも賢い少女の本音が垣間見えたような気がした。爪の先を弄り、瞳の奥に轟々と燃え盛る憎悪の炎……。無表情の仮面を被りながら、鬼気迫る雰囲気を醸し出すマナにステラは一つの解を得る。それは、


 「アンタ、許せないの? そこまで自分を苦しめた連中がさ」


 マナが長い時間を掛けてでも叩き潰そうとしている搾取側への反骨心だった。


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