苦しみからは何も生まれない。何故なら、其処には涙しか存在しないから。
痛みからは何も芽生えない。何故なら、流れ出る血は何時か枯れ果て、乾いた肉だけが残るから。
弱者が抗おうとしても、強者の論理はいとも容易くか細い糸を引き千切り、無駄だと誹る。生まれ持ったアドバンテージ、多少のコストを支払い切れる財力、リスクを無視してもそれを挽回できる社会的立場。どれだけ弱者が牙を剥こうと、強者側に立つ人間からして見れば些細で拙い抵抗は無意味でしかない。
強者に媚び諂うのが弱者の生きる道なのか、目に入らないように影の中で生き、搾取され続ける命こそ弱者として産まれた人間の運命なのか。下層街のルールにおいて、その問いの答えは是として語られるべきものだろう。中層街であろうとも、個々人の教育レベルの差は将来設計に響く重要な要素である。
武力で物事を押し通し、暴力を以て首を縦に振るわせる行為を支配と呼ぶのなら、金銭を絡めた論理で事を運ばせる方法は契約と呼ぶべきか。事前に交わした約束事を守れぬのなら、奪われても文句は言えまい。法という名の暴力を振るい、然るべき場所で争い合え。下層街と違い、中層街は人の定めた法が欲望を司り、表面的な秩序を保たせているだけに過ぎない。
ならば、暴力の二重奏の間に立つ人間が持つべきモノは何だ。撃鉄を弾く者が抱き、声を荒げて己の言葉を垂れ流す者が抱かねばならぬモノ……それは心なのかもしれない。強者や弱者であっても、決して捨てることができない感情こそ人間が持つ諸刃の剣。善悪の二面性を持つ刃無き剣である。
「……」
心臓が脈動し、胸を打つ。
「……」
己の心の奥底を射抜いたステラの言葉に唇が震え、頬の緩みが抑えきれない。言葉巧みに楽な方へ誘導しようとも心を折らず、己の苦しみに立ち向かおうとする少女へ歓喜の声を上げそうになってしまう。
そうだ、人は二本の足があるから立って歩くことができる。もし片方を失ってしまっても、機械義肢を取り付けることで再び立ち上がれる。これは物理的な問題ではなく、精神性の話に通じてくるのだ。完膚無きまでに心を叩き潰され、土を舐めようと、感情を原動力にして奮い立つ。それを彼女は理解している……無自覚ながらも、確実に。
「なに笑ってんのよアンタ、気持ち悪いわね」
「笑っていましたか? 私が?」
「そりゃもう心底楽しそうにね、ニタニタって」
「そう……ですか」
感情を表に出していた覚えは無い。ゆっくりと自身の頬に手を添えたマナは、頭を振るうと深呼吸を繰り返す。
本当に心を覗かれたワケではない。これは単に表情筋が無意識に緩んだだけ。何度か頬を擦り、高鳴る鼓動を鎮めようとしていたマナの頬をステラが掌で挟み、
「にしても」
「———」
「腹立つくらい顔が良いわね、アンタって。アタシ、アンタの腹は気に食わないけど、顔は好きかもね」
「……容姿を褒めても良い気にはなりませんよ? 私の顔は作り物なんですもの」
「なら医者に感謝しなさいよ? アンタを撃たなかった理由にさ、顔も入ってるんだから」
皮肉のつもりで言ったのに、話しを聞いていないかのような素振りで言葉を返すのか。段々と温かくなる頬がマナの心を解き解し、少しだけ冷たいステラの手も熱を持つ。
「ステラ」
「なに?」
「マナと呼んで下さい。アンタという呼称は少し……他人行儀のように感じませんか?」
「他人だもの、アンタで十分よ」
「ならそれはイーブンではありません。私は初めから貴女ことをステラと呼んでいましたし、それなりに気を使っていたつもりですが」
「イーブンて言いたいのなら、アタシにもハンデがあったんだけど? アドバンテージ……それを見て見ぬフリしないで」
「……」
痛いところを突かれ、押し黙ったマナは暫しステラの好きなようにさせ、溜息を吐く。
らしくない。何時もならば直ぐに理屈でモノを返し、相手を黙らせている筈。論理の武装はマナを守る盾であり、剣であるのだ。それを自分から捨てるなど彼女らしくない。
「名前で呼んで欲しいのなら約束して」
「……それは契約ですか?」
「馬鹿、頭が堅いどころか岩でも詰まってんじゃないの? アンタのことは名前で呼んであげる。その代わりに、アタシの前でそのクソ丁寧な言葉は止めて頂戴。そんな言葉遣いで友達になれると思ってんの?」
「随分とまぁ……難しいことを言うのですね、貴女は」
「そうでもしなきゃアンタの石頭は治らないでしょ? 合理的選択? それを示しただけじゃん、アタシは」
逡巡したマナは視線を泳がせ、ステラの瞳をジッと見据える。
友達なんてモノは利用するだけ利用して、最後には疎遠になるものだ。どれだけ仲良くしていようとも、一年以上連絡を取らなければ心と絆は離れてしまう。マナが聞きかじった友人関係とはそういった類いのものであり、御友達という駒を多く抱える少女は、ステラの言う友達の定義がよく分からない。理解できる定規を持ち合わせていない。
「で、どうするの?」
「……」
「別にアンタがどうしようと、アタシに不利益は無い。けど、その時はアンタはアンタ……名前で呼ぶ必要も無いってワケ」
「……」
「だんまりを決め込むつもり? あっそ、じゃぁいいわ。アタシは明日も仕事だし、アンタみたいにアレコレ考えてる暇は無いの。お休み」
「ステラ」
「……」
「私は……正直に言うと、友達がなんなのか分からない。それは貴女も同じな筈」
「当たり前じゃん、下層街の子供にそんな事を考えてる余裕は無いもの」
「だから聞きたい。ステラは……友達とは何だと思う?」
「……困った時に助け合う間柄なんじゃないの? あとは……気楽に話せる仲とか、そんな関係だと思うけど」
「なら、私達の関係は友達とは言い難いのかもね」
「そんあ直ぐに友達になったら気味が悪いって、冗談じゃないわ。けどまぁ……アンタ、あぁごめんなさい。マナが口調を直してくれたってのはさ、前進だと思うよ。アタシはさ」
「前進?」
「うん、だって普通ならアタシの話しなんて馬鹿馬鹿しいと思うし、マナに利益は無いんだもの。普通の下層民、ううん、多分中層民でもこんな約束事は守らない。適当に受け流すか、クソだと言って殺しにくるか……。だからマナは凄い。アタシなんかと比べ物にならない位ね」
毛布を広げ、目覚まし時計をセットしたステラは横になると大きく息を吸う。薄い胸板が膨らみ、タンクトップの隙間から見える白い双丘、その奥にある腹もまた呼吸に合わせて上下する。
「多分さ」
「えぇ」
「アタシ達は、友達にはなれないんだよ」
「どうして?」
「見えているモノが違うから」
「視点と言いたいの? ステラは」
「価値観の問題かな。アタシは友達に必要性を感じないし、もし出来たとしても結局は損得勘定で動くと思うんだ。あ、家族は別だよ? ダナンとリルス、イブのことは他の誰よりも……自分以上に信じてる。みんなに憧れるし、隣に立てるように成りたいのも嘘じゃない。マナ、アンタは自分以外に信じられる人は居る?」
「それは」
居ないワケじゃない。ただ単に、その人に追いつくのが難しいだけ。義父のように成るにはあらゆるモノを捨て、合理的に動かなければならないのだろう。感情を排した機械のように、淡々と。
凡人が天才と並び立たないように、己も凡人であるが故に思索を張り巡らせて生きなければならない。憧れを直視せず、視界の端に置きながら。
「けど」
「……」
「それでも寄り添いたいのが、人間なんじないかな」
「寄生しろとでも?」
「ううん、人間の本質が獣であるのなら、獣らしく群れていても問題は無い。だから……寄り添い生きる命にも成り得る。アタシは……そう思いたいなぁって」
小さな寝息を立て、眠りに落ちたステラの頬を撫でたマナは彼女の横で丸くなり、瞼をゆっくりと閉じた。