昼前ということもあり、王城は人出が多く、キリルの案内で通用門を通らなければ長い渋滞に巻き込まれてしまっていたことだろう。
そのキリルの手配で、ドミニクス王子への面会許可はすでに得てある。公務を一切担当していないため時間に余裕があるのだろうが、本来ならがいきなりアポなしで訪問して目通りが叶う相手ではもちろんない。
エリカは失礼のないよう、借りた薄手のショールで魔法薬局受付嬢の簡素なドレスと白衣を少しでも隠し、緑色に光って眩しくてしょうがない髪も束ねてきた。貴族令嬢には見えないとしても、魔法調剤師ですと名乗れば信じてはもらえるはずだ。
(こういうとき、『
エリカの白衣の胸元にあるワッペンは、まだ金色だ。『
今のところ、魔法学院代表に押し付けられたような『
王城内を足早に進むキリルの背中を追いかけて、景色を憶える暇もなく、ドミニクス王子の住まう王宮の
となると、
夏を忘れ、なのに夏を感じさせる幻想的な部屋の主『
「久しぶりだね、エリカ」
相変わらずの儚げな雰囲気をまとうドミニクス王子は、伸びてきたピンクブロンドを緩く三つ編みにして、肩にかけていた。薔薇色、とまではいかずとも、頬に薄いピンク色が差している。
エリカはキリルからスツールを受け取り、ドミニクス王子のベッド脇へと立つ。
「お変わりないようで安心しました、殿下。お身体の調子はいかがでしょう?」
「このところ安定しているよ。おかげさまでね」
まもなく「座って話をしよう」とドミニクス王子の許しが出たため、エリカはスツールを置いて、神妙に腰掛ける。その態度から察したのか、ドミニクス王子はエリカへ社交辞令を排して本題に入るよう促す。
「君がいきなり来ることは今までなかったことだ。それゆえに、重大なことがあったと認識している。遠慮なく話してくれ」
「はい。さっそくですが」
花の香漂う寝室に似つかわしくない話が、幕を開けた。
ノクタニア王国を蝕んできた『
エリカは単刀直入に、要点だけを話す。それだけで理解できるほどドミニクス王子の頭の回転は早い、病さえなければ優秀な才能を持つ王子なのだ。
「
「はい。ですが」
「そもそも『
ドミニクス王子の認識は間違っていない。実際に『
となると、
ドミニクス王子が国家規模の話と言ったのは
ドミニクス王子はそこまで分かっているがゆえに、エリカの担当する部分だけに話の焦点を当てた。
「国王以下王族の
「はい、そのように。ただ、高位貴族となるとまったく繋がりがなく、説得にも一苦労することを考えると、まず熟慮して行動に移さなければなりません」
「うん、もっともだ。ならば、我が国でもっとも影響力の強いエーレンベルク公爵家を狙い撃ちすべきだ」
(ですよね)
「かの公爵家の当主は問題こそ多いが、話の通じない人ではない。『
「承知いたしました。感謝いたします、殿下」
エリカは深々と頭を下げる。それだけの働きをすぐさま約束してくれるのだ、やはりドミニクス王子に頼ってよかったと心底思える。それが後ろめたい気持ち——今更ドミニクス王子のために正しい選択をしていないのではないかという不安——を少しは和らげてくれた。
それだけではない。
ドミニクス王子は、「なぜエリカがわざわざ自分へこの話を持ってきたのか?」ということを考え尽くしたらしい。
「何か、他に悩みごとでもあるのかい?」
これには、エリカも返答を言い淀む。この問題について何らかの障害があるのか、という問いなのか、それともエリカに対しての気遣いなのか、はたまた両方かを計りかねたからだ。
「大丈夫、正直に話してごらん。僕をわずらわせるだなんて考えなくていい」
「そんな、畏れ多いことです」
そうは言ったものの、この計画内でエリカにできることはもうさほど多くない。ここから先はエリカだけではどうにもならないことのほうがはるかに多く、だからこそドミニクス王子を頼ってきたのだ。
ならば、エルノルドの隠された秘密についても情報を共有すべきだし、エリカ一人で悩んでいても埒が開かない。
本日二度目の意を決して、エリカはついに重い口を開いた。
「実は、私の婚約者が——」
おそらく、エルノルドの実母とその実家——エーレンベルク公爵家の事情については、ドミニクス王子も知らなかったのだろう。
エリカの婚約者であるニカノール伯爵家嫡男エルノルドは、エーレンベルク公爵長女であり実母のエレアノール・エーレンベルクを奪取、救助しようとしている。そのために色々と働いていて、エーレンベルク公爵家とは深い因縁があるのだ、という醜聞どころか下手するとノクタニア王国を揺るがしかねない大事件の予兆だ。
これにはドミニクス王子も若干顔が引きつっていた。繊細な笑みを絶やさない美青年にとっては滅多にないことだ。原作ゲーム中でもそんな顔グラ差分パターンはなかっただろう。
話を聞き終えたドミニクス王子は、王族らしく言葉を選ぶ。
「……貴族にはままある話と言いたいところだが、さすがにそれはエーレンベルク公爵家との協力関係を模索する上で問題になりかねないね」
「はい。こうなれば、私はエルノルドと婚約破棄してでも、と思います」
「うーん……それが無難ではあるが」
ドミニクス王子は愁眉を見せて悩む。当然だ。万一順調にことが進み、
念には念を入れて、ドミニクス王子は工夫を凝らす。
「仕方ない。ひとまず、エーレンベルク公爵へ送る手紙には、君の名前は直接出さないことにする。『
これには突拍子もなく、エリカは素直に驚いた。ドミニクス王子がその称号を知っていて、なおかつ利用する道を作るとは微塵も思いつかなかったのだ。
「で、殿下、称号のことをご存じだったのですね」
「もちろん。ああ、もしかして気に入らないのなら」
「いいえ、ぜひ使ってください。称号一つで何とかなるなら、ぜひ!」
「うん、よかった。あとは、適宜こちらも対応する。そのためにはキリルを通じて進捗を逐次報告してほしい、ここにいるしかない僕にできることはすべてやっておこう」
「本当に、ありがとうございます!」
「どういたしまして。こうやって誰かの役に立てることは、嬉しいかぎりだ」
それは本心からの言葉で、病床から離れられない身だからこそ重みが違う。しかし、だからと言って無理はさせられない。
あくまで、ドミニクス王子に頼るのはエリカにどうしようもないことをどうにかするためである。エリカはその一線を越えないよう、細心の注意を払う必要がある。
(せっかく潰したルートを復活させたりしないわ。大丈夫、ドミニクス王子だって幸せにしてみせる)
再度頭を下げたエリカの胸中を誰も理解できないとしても、その思いは変わらない。
ドミニクス王子は、実に柔らかい声色でこう告げた。
「また何かあれば、遠慮なくおいで、エリカ。君は僕の恩人なのだから」
エリカは無言で頷く。
そのとおりだ。ドミニクス王子はエリカが救ったこの『ノクタニアの乙女』最初の一人だ。ドミニクス王子を救えたのなら、ロイスルもエルノルドもベルナデッタもアメリーも救えるはずだ。
ドミニクス王子を救ったというその希望の火種がエリカの胸の中にあるかぎり、悲劇しかない結末を変えられるという確信の礎は崩れない。