先日まで野原に咲いていたであろう花々が大小バスケットに詰められ、タイル張りキッチンのあちこちにさりげなく飾られていた。エニシア、ズルカマラ、ジギタリス、マーガレット、素朴で決して存在感の大きくないそれらは、わざわざ摘んできて王都の家庭で飾られることはない。バラやアイリスといった家の紋章にも使われる華やかなものは好まれるが、田舎くささを感じさせるとして普段は避けられるような花のはずなのに、夏の生き生きとした姿は力強く育つ生命の存在と夏という季節を実感させ、繁栄の季節を思わせる。
そこへ、スカイブルーのチェック柄テーブルクロスを敷かれた小さなダイニングテーブル上に、ガラスのポットとティーカップセット、焼き菓子の皿が並べられていた。春摘み紅茶が出回りはじめた今にふさわしく、まるでピクニック先で楽しむ軽やかでカジュアルなお茶会のようだ。
「さ、どうぞ」
「ここは私の家よ。あなたこそ、客人らしく先に座りなさい」
「家はあなたのものだけれど、もてなすのは私だもの。はい、座ってちょうだい」
格好をつけようとしたものの、ベルナデッタに言い返されてそのまま席に座らさせられたアメリーは、ようやく諦めてお茶会を受け入れたようだ。
それはベルナデッタが連れてきた従者たちの働きもあって、上質なサービス——貴族としては当たり前に受けることだが——があれば、徐々にぎこちなさも解けていくというものだ。
「このサブレ、何が入っているの?」
「
「はい?」
「だから、小麦の皮のことよ」
「し、知っているわ、それぐらい。そうじゃなくて、そんなものを入れているの?」
「栄養たっぷりよ? それもお姉様が教えてくれたことでね、色々と調整は必要だけれど子どもから大人までお菓子で不足する栄養を取れるの。すごくない? もういくつかの農村と契約して専用の調達ルートは作ってあるのよ」
「……それを、売るの?」
「そうよ! いい? ノクタニアは平和な大国よ、でも平民の栄養状態は褒められたものではないわ。特に」
そこから続くベルナデッタの商品説明を、アメリーは最初こそうんざりした様子で聞いていたが、次第にその熱意に押されて意義深さに思いを馳せるくらいにはなった。もちろん、平民の栄養状態など知る由もないアメリーは、「平民だってパンを食べられるのでしょう?」くらいにしか想像力は働かないが、よく分からないが何か問題があるのだ程度には認識が改まった。適当にあしらえばいいものの、アメリーは根が真面目ゆえに、しっかり他人の話を聞いてしまうのだ。
そして、その流れでベルナデッタは突然話題を変え、いや、本題に入った。
「あ、そうだ。えっとね、言っておくけれど、私はエルノルドのことは別に何とも思っていないから」
エルノルドの名が出たことで、アメリーはティーカップに触れた指先がピタリと止まった。
それと同時に、ベルナデッタとエルノルドを奪い合うような形になった三つ星ホテル『ノクテュルヌ』の一件を思い出す。嫌な思い出を振り払おうとしたアメリーは、ベルナデッタの話を上手く遮ることができなかった。
「つまり、あなたはエルノルドのことが好きなのだから、あなたとエルノルドが結ばれればいいと思っているわ」
途端に、アメリーは声を若干荒げて抵抗する。
「馬鹿馬鹿しいことを真顔で言わないでくれる?」
「何よ、お姉様だって賛成してくれたのよ」
「私がエルノルドと結ばれるなんて夢物語、ありえないわ。何もかも、子どもが考えたような話よ!」
アメリーの声には怒りさえにじんでいた。馬鹿にされたような気分、からかわれているとさえ感じる有様だ。なぜあなたにそんなことを言われなければならないの、エルノルドを奪おうとしているあなたに、と。
それが分からないほど、ベルナデッタは人でなしではない。ここまではただの前座であり、ここからが本題なのだ。
アメリーの境遇を知るベルナデッタは、自分が憎まれ役になるほうがいいと思ったまでのことだった。
「ロイスルと話をつけてきたの。あなたとの婚約を破棄してもいい、って」
エルノルドだけでなく、ロイスルの名まで出ては、アメリーも完全に面食らってしまった。
ベルナデッタは事業の打ち合わせで今週だけでも何度となくロイスルと話し合っていた。その過程で、思いついたのだ。
魔法使いの伯爵家に嫁ぐことを喜ぶ貴族令嬢はいない。それも、侯爵家令嬢ともなればなおさらだ。アメリーとアルワイン侯爵家との関係や、アメリーの今の状況、エルノルドへの思いを鑑みれば、ロイスルとの婚約など望んでいないことは明らかだ。
だったら——だったら、ロイスルを説得できる材料がある自分なら、とベルナデッタは思ってしまったのだ。アメリーを傷つけることになろうとも、この選択がアメリーのためになるなら、エリカも賛成するだろう、と。
アメリーは、何とか言葉を絞り出す。
「——そんな、こと」
「嘘じゃないわ。彼はあなたに執着していないし、アルワイン侯爵家も了承するだろうって」
「わざわざ……あなたは、私に価値がないと言いにきたの?」
「違うわよ。卑屈にならないで」
「なるに決まっているわ!」
それはもはや金切り声に近く、ベルナデッタと三人の従者は動きを止め、しばし沈黙する。
ベルナデッタはアメリーから目を離していなかった。現実に打ちのめされてきたアメリーは、自分の思い通りになる出来事のほうが少なかったに違いない。誰も彼もがアメリーに優しくなかった、もちろん婚約者のロイスルもだ。エルノルドとの繋がりはあのミニチュア衣装を見ていればベルナデッタには分かる、あの作品たちを褒められたのだろう。暗闇に一筋の光明が差し込んだように、アメリーの諦観に満ちた心はエルノルドに救われて、そうして想いを寄せるに至った。叶わぬ恋だと分かっていても、アメリーには止めようがない。本人だって苦悩しているからこそ、今感情的になっている。
だからこそ、
エルノルドとアメリーを結ぶためにやれることをやる、ベルナデッタはここでアメリーを説得しなくてはならない。そして、ベルナデッタは交渉に際し、ありとあらゆる手を使う。知り得た機密情報も、ここぞと思えばあっさりと使う。
「いい? エルノルドとあなたが結ばれるということは、場合によってはあなたはエーレンベルク公爵家に嫁ぐことになるのよ? その可能性をちらつかせられれば、アルワイン侯爵だって了承するに決まっているわ」
ノクタニア王国における最大派閥、公爵家筆頭のエーレンベルク公爵家、それも本家と姻戚関係を結べるならばほぼすべての貴族の当主が両手を挙げて賛成するものだ。たとえ娘が嫁ぎ先でどのような扱いをされようとも、家には利益さえ与えればいい生贄のような扱いであっても、名より実を取る。
もちろん、ベルナデッタはアメリーをそんな目に遭わせるつもりはない。エルノルドがエーレンベルク公爵家を継ぐことなどありえないし、おそらく関係が良好になることだってないだろう。あくまで、アルワイン侯爵家を説得するためのとっておきの材料でしかないのだが——。
ベルナデッタを見つめるアメリーは、開いた口が塞がらない。呆然とした表情には、信じられないと書いている。
ベルナデッタは平民だ。エルノルドの秘密を聞いて生粋の貴族がどういう反応をするか、どうしても読めていなかった部分もある。
ベルナデッタの予想以上に、アメリーは動揺していた。
「ど……どういう、こと? どうして、エーレンベルク公爵家の名前が出てくるの?」
この国の貴族にとって、エーレンベルク公爵家の家名はとてつもなく重いのだ。それはもう気の毒なほどに、アメリーの指先は震えていた。