一口に貴族と言っても、千差万別だ。身分階級としての『貴族』、そして『貴族』の中には上から下までさまざまな区分があり、別格の存在もいる。平民にとって貴族が雲上人であれば、下級貴族にとってはエーレンベルク公爵家がまさにそれだ。
他の公爵家とは一線を画し、王家との距離を一定に保つことによってノクタニア王国内でも別格の地位を維持しつづけるエーレンベルク公爵家は、いかにアメリーの実家アルワイン侯爵家が由緒正しい名家であっても畏怖すべき、あるいは格上の存在である。
もちろん、交友や商売程度で普通に関わるくらいなら何ら問題ない。だが、一度内部に足を踏み入れてしまえば、そこはエーレンベルク公爵家という当主を絶対的な長とする一種の治外法権領域で、機嫌を損ねればノクタニア王国の貴族たちの過半数を敵に回すことにもなりかねない。よほど野心的な貴族でもなければ、無闇に関わりたがらないものだ。
そう、エルノルドのような向こうみずで深い事情を抱えた青年貴族でもなければ——要するに、誰もがエーレンベルク公爵家を敵に回そうとなんてしない。それが、アルワイン侯爵家令嬢アメリーの持つ
ベルナデッタはアメリーの手を握り、震える指先を包む。
「ごめんなさい、あなたがそこまで嫌がるとは思っていなかったの。これ以上この話をしないほうがいいなら、そうするわ」
ベルナデッタがアメリーの顔色を窺うと、困惑と恐怖の色が見て取れた。おそらく、今アメリーの頭の中では、自分はどう反応すべきか、自分はどんな立場でいるべきか、無意識のうちに計算が進んでいることだろう。
ベルナデッタはそれを責めるようなことはしない。貴族とは、そんな計算ができなければ生きていけないからだ。
「どうやったって私は平民だから、貴族のあれこれは学んだ知識としてあっても、正直実感が湧かないこともあるわ。さっきのロイスルとの婚約破棄の話だって、そこまであなたを傷つけるとは思ってもみなかった。心から謝るわ、ごめんなさい」
「……いい、気にしないで」
「でも」
絞り出すようなか細い声の返答のあと、アメリーはベルナデッタの手中から指を引き抜いた。
もう震えていない指を一瞥して、アメリーは頭を軽く横に振った。
「エルノルドが何かを隠していて、企んでいるのは、私だって最初から気付いていたもの。それでも私は聞かなかった、貴族として他人の秘密を詮索してはいけないと思ったから。まさか、そこまでの秘密があったとは思ってもみなかったけれど」
アメリーは意識的にベルナデッタと目を合わせないようにしていた。しかし、ついには折れた。
「そうね……エルノルドが私の作品を褒めて、手を組もうって言ってくれたのは、そんな目的もあったのでしょうね。おかしいとは思ったわ」
「そうなの?」
「ええ、だってエルノルドに出会う前から、私はエーレンベルク公爵夫人に作品を卸していたのだもの。今だって、あのバーガンディのドレスは依頼されて作っているものよ」
やっと、アメリーはベルナデッタへと視線を向ける。
「ねえ、私はどうすればいいと思う……? 知ってしまった以上、もうエルノルドと今までどおりの付き合いなんてできないわ。次に顔を合わせるとき、どんな表情をすればいいか分からないもの。いっそのこと、ここを出ていって……ふっ、実家からも放逐同然の私が、どこへ行けるというのかしらね」
アメリーの自己認識は正しい。箱入り娘のアメリーはここから出ていくことなどできない、貴族令嬢として実家に帰ることもできない。ましてや、エーレンベルク公爵夫人に依頼された作品を途中で止めることも、だ。
とはいえ、アメリーは今の自分の気持ちには向き合いきれていないし、ベルナデッタへ視線を向けたことも——もはや、アメリーは自分自身の身の振り方が分からないのだ。
そして、ベルナデッタは生粋の『ヒロイン』であり、目の前で困っている人を放っておくことはしない。
ベルナデッタはすぐに、アメリーへ事態の解決策を提案する。
「だったら、うちで暮らす?」
「は?」
「仕事をしたいなら斡旋するわ。でも、がむしゃらに何かをしようとしたってダメよ! 心を落ち着けて、少し休んだほうがいいことだってあるわ。それくらいなら、友達として我が家の一室を貸すくらいわけないもの!」
「友達って、私とあなたはほとんど会ったことさえないのに」
「会って話してお茶すれば、それは友達なの! お姉様もそう言っていたわ!」
なかなかに強引な友達作りの作法を披露するベルナデッタだが、そこまで友達が多いわけではない。むしろ、少ない。実際のところ、同年代の友達はエリカくらいしかいない。そして、エリカはそんなことを言っていないのである。
そうやって虚勢を張って、ベルナデッタは自分よりも友達のいないアメリーの心をどうにか開かせようとしていた。内心ハラハラしながら、アメリーを助けるために——貴族学校での喧嘩腰な初対面を忘れて。
もっとも、初対面をしっかり憶えているアメリーからすれば、ベルナデッタのお人よしは二度目で、いつもあまりにも必死すぎて、不意に小さな笑いが込み上げてきていた。
「何、それ。お気楽な考え」
笑われたベルナデッタは子どもっぽく頬を膨らませる。
それを見て満足したアメリーは、咳払いとともに笑みを消すと、話題を変えた。
「
「そう、そうなのよ。まあ、お姉様のことだからまた何かすごい解決策を思いつきそうだけれど、こればっかりは難しいかもしれなくって」
「エーレンベルク公爵家なら……私が公爵夫人へ頼めば、その大きな一助になるかもしれない、でしょう?」
「それは、そうだけれど」
「安心して、私は自分の立場を分かっているわ。御用達のミニチュアドレスを作る縫製職人から、いきなりそんな話をされたって公爵夫人は応じないでしょうね。でも、私が納品のときに目通りを願えば、そのくらいなら叶うかもしれない。そのときに」
まるで流れるようなアメリーの提案に、ベルナデッタはすみやかに待ったをかけた。
「申し出は嬉しいけれど、まだ待ってくれる? あなたを経由すれば、何かの拍子でエルノルドに繋がってしまうかもしれないでしょう?」
「そうね。なら、一応、そんな伝手もあるということを憶えていてちょうだい。私にできるのは、本当にそこまでだから」
ベルナデッタは分かっている、確かにそれがアメリーにできる最大限の協力だ。だが、だからこそたった一枚の切り札はまだ使うべきではない。
「とりあえず、この話は内緒にしましょ。私からお姉様には伝えておくけれど」
ベルナデッタはそこで言葉を止めた。アメリーは不思議そうにしているが、玄関の扉が開いた音に気付いていないようだ。
控えていた使用人たちが動き、廊下へ向かう。一言二言の会話が聞こえ、男性の声がしたのをベルナデッタは聞き逃さない。
アメリーの家にやってくる男性となれば、一人しかいない。
案の定、使用人に連れられてお茶会中のキッチンへやってきたのは、エルノルドだ。アメリーとともに、顔を合わせて大層驚いていた。
「アメリー? どうしたんだ?」
「エルノルド!?」
そのままエルノルドの視線は、アメリーの対面に座るベルナデッタへ向けられ、やはり驚きが優ってしどろもどろになっていた。
「ベルナデッタ……どうしてここに」
すかさず、ベルナデッタは明るく振る舞う。
「あらエルノルド、ごきげんよう! アメリーとお茶をしにきたの。ね?」
「……え、ええ、そうよ」
アメリーも何とかベルナデッタに話を合わせる。二人揃っての主張となれば、やってきたばかりのエルノルドは納得したのか頷いていた。
「そうだったのか。ああ、いや、邪魔をした。あちらの部屋にいるから、終わったら声をかけてくれ」
「あの、エルノルド!」
アメリーがエルノルドを引き止める。何を言いたいのだろう、ベルナデッタは見守っていた。
なぜ今まで黙っていたの? 私を利用しようとしたの? どうして話してくれなかったの? そんな言葉が出てくることは予想できるが、それで本当にアメリーの望む結果が得られるだろうか。
おそらく、そんなことくらい、アメリーも分かっている。
だから、アメリーはそれらの感情が暴発する寸前に、まとめて引っ込めた。
「何でも、ないわ。もう少し、待っていて。作品なら、見てくれていいから」
その光景を見ていたベルナデッタは、ポーカーフェイスを装いながらも、心のどこかがじわりと痛む。
アメリーの感情の処し方は、痩せ我慢もいいところだ。今を壊したくないわけでも、エルノルドに振り向いてほしいわけでもなく、波風を立てないことを選んだ。貴族令嬢としてはそれが正しい、アメリーの身分で揉め事を起こしてもろくなことにならない。
だというのに、ベルナデッタにしてやれることは、今は何もなかった。