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第35話 転期を支えるもの

 ルカ=コスマ魔法薬局の奥にある調剤室では、関係者以外立ち入り禁止なのは当然であり——貴重な薬の材料となる取扱注意の代物が防護処理された棚に並び、たまに襲いかかってくるようなこともある——個々の魔法薬局が得意とする調剤の処方術を部外秘とするため、魔法薬剤師の顔や手元が霞んで見えなくなる認識阻害の魔法道具が使用されている。一体何人の魔法調剤師が在室しているのか、どのような道具を用いて調剤しているのかは、すぐそばに立たなければ目で見えないし、匂いや音も抑えられている。

 そのため、エリカはいつも調剤室に用事がある場合、入り口から呼び鈴を鳴らして、それに気付いた魔法調剤師に用件を伝える。それ以上踏み込むと彼らの仕事の妨げになるからであって、決してエリカがハブられているわけではない。以前、ルカ=コスマ魔法薬局長のリリアン・ナーベリウスにそう言われたが、いまいちエリカはピンと来なかった。

 それは今も変わらず、エリカはガラス製の呼び鈴を振って鳴らし、近場にいたのかリリアンがちょうどやってきたことと関係はないだろう。

「エリカ、どうしたの?」

「薬局長、すみません。また早退を」

「ええ? ああいや、ダメなわけじゃないんだけど、そんなに慌ただしいの?」

「はい……なので、こちらを」

 エリカはリリアンへそっとメモ書きを渡す。調剤室内ではしゃべるよりも書いて渡したほうが正確に伝わるだろう、という配慮とともに、話す内容があまり外に漏れてほしくないものだからだ。

 メモ書きには、こう書いてある。『宿直室にある解呪薬リカースワクチン製造を今日から始めてもらいたい。機材や材料は揃えてある』。

 解呪薬リカースワクチン製造については、リリアンへとすでに話を通してあった。いくら何でもエリカ一人で製造から保管、大規模接種までできるわけがない。エリカによる製造方法の確立とアレサンドロに頼んだ材料の調達ができたなら、せめて製造と保管はルカ=コスマ魔法薬局の優秀な魔法調剤師にやってもらったほうが信頼できるし、時間の節約にもなる。そのための費用はベルナデッタを通じてノルベルタ財閥に出してもらい、一気に計画を進めるタイミングを見計らっていたのだ。

 リリアンはしっかりと頷いて、承諾の意思を示す。面白そうだ、と顔に書いていた。

「うん、分かった。やっておくよ。こちらのことは心配しなくていい、事の重大さは百も承知だ」

「ありがとうございます」

「無茶しないようにね」

「はい!」

 リリアンの局長としての配慮もあり、エリカは後ろめたいこともなく、魔法薬局の受付を早退してややこしい話し合いに向かうことができる。

 エリカが出ていき、調剤室の扉が閉められると、奥から二人の魔法調剤師がのそのそ現れた。一人は学者然とした中年男性で、もう一人は若い聡明そうな青年だ。リリアンも含め、全員が『金冠魔法調剤師ゴールドクラウン』のワッペンがついた白衣を着用している。

 リリアンが笑いながら、ため息を吐いた。

「ふう、エリカもとんでもないことをするものだよ」

 リリアンの手にあるメモ書きを見た二人の男性魔法調剤師は、苦笑していた。『金冠魔法調剤師ゴールドクラウン』である彼らは、事前の話し合いでエリカの開発した解呪薬リカースワクチン製造の担当を任されているため、エリカを取り巻く事情はリリアンと同程度把握している。

 それはそれとして、彼らにとってはエリカは可愛い後輩だ。『真銀冠魔法調剤師ミスリルクラウン』になろうが、貴族の陰謀に巻き込まれようが、エリカの真っ直ぐに『患者』を救おうとする意思と技術を高く評価している。

「ですね。普段の腕前が腕前だけに、下手に調剤室へ入れられないから鬱憤が溜まってたのかもですよ」

「ありそうだ。ま、受付嬢しなきゃなんなかった理由、エリカは薄々気付いてるだろう」

「そうだね……それは私たちが接客下手って事情もあるけど」

 ルカ=コスマ魔法薬局の受付嬢エリカは、魔法調剤師として調剤業務を担当していない。だがそれは、皆が決してエリカの能力を低く見たり、疎んでいるわけではない。むしろ逆だ。リリアンは最初からを見抜いて、受付嬢に据えたのだ。

「あの子の才能は本物だ。まるで、どうすれば目的の薬を作れるか、最初から道筋が見えているかのように薬を作ってしまう。早晩、古臭い魔法薬調剤に我慢できなくなって、次から次へと新しい手法や薬を取り入れてしまうだろう。それじゃダメなんだ、あの子はもっと患者と向き合う必要があった」

 うんうん、と二人の男性魔法調剤師はリリアンの意見に同意する。

 エリカが乙女ゲーム『ノクタニアの乙女』ミニゲームである魔法薬の調合をクリアした腕前、ということは当然彼らが知る由もない。前世で高度な薬学を修めていたことも、この世界の医療水準をはるかに超える医学的見識があることも、だ。

 それらを除いて、どうしても彼らには先達の魔法調剤師として見過ごせないことがあった。

「現実に向き合わず、机上の空論にのめり込む天才はいくらでもいる。何もかも上手くいかなくなって、自分が悪いのではなく思いどおりにならない現実が悪いのだと見当違いなことを口にする輩もいる。エリカにはそうなってほしくなかった。己の相対する事象や対象への誠実さを忘れて、プロ意識が育つものか」

 エリカは稀に見る高い能力と他人を救いたいと願う意思がある、しかしそれだけでことはできない。研鑽を積んできた医者がいて、環境を整える看護者がいて、助力する魔法薬剤師がいて、そして治そうとする患者がいて、初めて傷病の治療行為が成り立つ。誰か一人の貢献だけで治療が完遂できはしない。

 ただ、その持っていて当然とも言われる広い視野を必ずしも生来獲得できるわけではない以上、教育によってはぐくむべきであり、ルカ=コスマ魔法薬局の人々はエリカへの教えを惜しまなかった。……外野から見ればそうは見えないかもしれなくても、彼らは誠実でありつづけただけなのだ。

 そして今、エリカはきちんとその視野を持って、解呪薬リカースワクチンを作り、他人と協力して計画を進めようとしている。リリアンたち三人にとっては、それは何よりも喜ばしいことであり、エリカの成長を祝うところだった。

「結局、我慢どころか二階に実験室作って解呪薬リカースワクチン開発だ。とんでもなさすぎるんだよ」

「まあまあ。おかげで、ワクチンでの予防接種の概念が世間に浸透するかもしれないじゃないですか」

「それもまた、あの子の功績だろうね。さ、スケジュールを組み直そう。解呪薬リカースワクチンの製造業務に人員を割り振るから、全員こっちに集合して」

 ガラス製の呼び鈴の音が、調剤室中に盛大に鳴り響く。

 新しいものへの好奇心を隠しきれない者、待ってましたとばかりに腕まくりする者、受付業務に出る役を押し付け合う者、調剤室は大わらわとなって、やるべきことへテキパキと邁進していく。

 ハッピーエンドを望むエリカの真摯さ真面目さは、十分に魔法薬局の同僚たちに伝わっていたのだ。

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