もはやエリカとベルナデッタは、三つ星ホテル『ノクテュルヌ』の常連である。
ロイスルの乗ってきた馬車にそのまま乗り込み、ルカ=コスマ魔法薬局から三つ星ホテル『ノクテュルヌ』のエントランスに付け、ベルナデッタがドアマンに微笑みかければすぐに中へと案内されるくらいには客として顔を知られている。
迷宮のようなホテル内廊下に未だ慣れないエリカは、しっかり迷子にならないよう——キリルが、である——袖を引っ張っていた。前を歩くベルボーイやロイスル、ベルナデッタにはバレていない。キリルが外見や能力はよくても中身は自覚のないポンコツ騎士であると知られてしまうと、誰が困るかといえば護衛を頼むことの多いエリカである。おそらく、それ以外に弊害はない。
そうして、ベルボーイに王宮のような大理石の廊下の突き当たりにある金枠の大扉に案内され、また新たなホテルの一室ができていることにエリカはもう呆れるしかない。『
とはいえ、今はバカンスどころではない。用意されたトロピカルジュースとコーヒー、サンドイッチなどの軽食が並ぶ籐とガラス面のテーブルを四人で囲み、ベルボーイが「ごゆっくりお過ごしください」と一礼して退散してからが本番だ。
今、ここにいるのはエリカと護衛の騎士キリル、ノルベルタ財閥の立役者ベルナデッタ、そして魔法使いのトネルダ伯爵家ロイスルである。
ベルナデッタは笑顔を張りつけながらも警戒心は解いておらず、ロイスルから投げかけられる会話にはどこか突き放した物言いで応対している。もっとも、ロイスルはほとんど喋らないエリカにも注意を払っており、エリカの態度や意思を見極めようとしているようだ。キリルはというとトロピカルジュースが美味しいらしくもう飲み干していた。
この場面、エリカはどうにも座りが悪い。ベルナデッタへ助け舟を出したいのだが、口を挟むチャンスが巡ってこない上、なかなかロイスルも世間話を切り上げない。
(何だか気まずい)
だが、やっとそのチャンスは巡ってきた。そう——キリルに、だ。
「アメリーとの婚約破棄は、話を進めてもかまわないのだろう?」
「ええ、ひとまず。でも、本当にいいのかしら。あなたに何のメリットもないのではなくて?」
「前にも言ったが、落日の侯爵家よりも急成長の財閥に鞍替えしたいだけさ」
「ほう、それはつまり、ベルナデッタに
「騎士殿、こちらの事情は」
「俺はキリル・ウンディーネだ。以後よろしく頼む、魔法使い殿」
「……それで」
「では頼みがあるのだが」
「……頼み?」
「うむ! 単刀直入に問おう、誰でもできる簡単な『
「そんなものがあればこちらの商売は上がったりだよ」
「だが、俺は気合いで何とかしたぞ」
「ああはいはい、気合いがあればできるんじゃないだろうかね」
「つまり、魔法使いはたるんだ王侯貴族たちに運動を推奨するために『
「きわめてナンセンスな健康推進方法だと思うよ」
ロイスルが機嫌の悪さを隠さず、そう言い放つ。キリルは「うむ、確かに」と納得している。ベルナデッタはそのやりとりに少しばかり笑顔が引きつっており、本当は大笑いしたいのだと見て取れる。
(やばい、あのプライド高いロイスルが、キリルにすごく苦手意識持っている。面白すぎてずっと見ていたいわ)
とはいえ、今日はロイスルで遊ぶ暇はない。エリカはキリルの靴の踵をコツンと蹴って、そのあたりにしておけと合図を送る。それに気付いたキリルが、小さく咳払いした。
ベルナデッタの目配せもあり、機嫌を直したロイスルはやっと本題に入る。
「さっさと本題に入ろう。エリカ・リドヴィナ、新しい
「真正面切って来すぎでしょ」
「何か困ることでも? 僕が魔法使いだからかい?」
「うん」
「少なくとも、僕がノルベルタ財閥と手を組む前ならば、その報を聞けばすぐにでも新しい
「へぇ〜」
「信用していないのか?」
するわけがない、とエリカは大声で言いたかったが我慢する。『
(襲撃自体は、間違いなくどこかの魔法使いが新しい
もちろん、エリカがロイスルを信じない理由はそれだけではない。
乙女ゲーム『ノクタニアの乙女』にて、ロイスルは『
そんな悪役がエリカとベルナデッタに近寄ってきて、警戒するなというほうが無理である。
なのに、どうも様子がおかしい。
その原因はすぐに分かった。キリルだ。
「魔法使いも人を殺すことに抵抗感があるのか?」
「当たり前だよ。怪物か何かだと勘違いしていないか」
「しかし、よく『
「それは魔法使いとしてのメンツに関わるからで」
本来のシナリオなら、どのルートであってもキリルがロイスルと会うことはない。なぜなら、エリカと同じくキリルもモブであり、名前さえないドミニクス王子の騎士なのだ。それが『ノクタニアの乙女』悪役ヒーローのロイスルと出会ってしまった。
すると、どうなるか? ——シリアスなシーンも、すっかりコメディになってしまっているのだ。これでも大真面目なキリルに釣られて気取ったロイスルの調子が崩れ、エリカとベルナデッタに生温かい視線を向けられるざまである。
(これもフラグを潰してきたからこその
人の出会いは、どんな化学反応をもたらすか分からない。ベルナデッタも各ルートで未来の姿がそれぞれ大きく異なるし、エリカと出会った今もゲーム内で見せなかった一面が次々と出てくるくらいだ。
エリカはわずかに残る釈然としない気持ちを心の奥底にしまい、大きなため息を吐いて仕切り直したロイスルの話に耳を傾ける。
「……とにかく、魔法使いが『
エリカはベルナデッタへ視線を送る。これは信じてもいいだろうか、という無言の問いかけに、ベルナデッタは上手く会話に紛れ込ませて答える。
「まあ、そうね、トネルダ伯爵家は魔法使いの中でも規模の大きな家だから、中小の魔法使いの家々は従うでしょうけれど」
「そういうことだ。それに、エリカ・リドヴィナ、魔法学院に通っていた君は知っているだろうが、魔法使いたちにも横の繋がりはある。政治的なものだが、『伯爵同盟』という名で魔法使いの利益代表となっているものだ。我が家はそこの一員として、
要するに、ロイスルの属するトネルダ伯爵家は、他の魔法使いたちに命令を出せる立場にあると言いたいのだろう。さながら、貴族ではエーレンベルク公爵家が一門を強力に統率するように同じようなことを行える、それは嘘偽りではないだろう。『伯爵同盟』という組織にしたって、ノクタニア王国の魔法使いの家が持つ貴族階級は伯爵が上限であり、実は『ノクタニアの乙女』の用語でもチラッと出てくるので実在はしている。
その上で、ロイスルの要求は迂遠で奇妙なものだった。
「ノクタニア王国のほぼすべての魔法使いを、取引先であるノルベルタ財閥の管理下に置くことが叶うならば、この国から『
エリカは首を傾げる。ロイスルは、『
そもそも、『
「それって、『
「理解が早くて助かるよ」
これに険しい顔をしたのは、淑やかにコーヒーを飲もうとしていたベルナデッタだ。
「何よ、それ。ロイスル、そんなものを信用できるとお思い? 『
「違うさ、ベルナデッタ嬢。僕が言いたいのは」
皮肉げな笑みを浮かべて、ロイスルは自信満々に、
「人はどうやっても『
なるほど、ロイスルは賢い。ロイスルの主張に得心の行ったエリカは素直に賞賛したかったが、怪訝な顔をしたベルナデッタとキリルの手前、言葉にはしない。
おそらく、ベルナデッタにも理解できない話ではない。彼女はゲーム中のルート次第では憎悪の象徴にも悲劇の女王にもなれる素質を持つのだから、そういった人間の悪意の矛先がどれほど御しがたいか、なんとなく察しているだろう。それを今、明確に表現できないだけだ。
突飛な話に何とかついていこうとするベルナデッタのためにも——キリルは放っておいて——エリカはどうにかロイスルの意図するところを和らげて伝えようと考えた。
「……エリカ・リドヴィナ。君なら断言できるはずだ、必ず悪意でもって使われる技術は生まれると」
そんなことは、魔法調剤師としてエリカが理解していないわけがないのだ。
薬は毒にもなる、逆も然り。どんな技術も、その使用者の意思によって使い分けられる。だからもし『
それをそのまま説明するのはあまりにも悲観主義がすぎるので、エリカは言葉を選んで、『
「可能性は無視できない。それに、将来的に『
「お姉様、そんなこと」
「『
それがロイスルのもっとも主張したいところであり、エリカたちと相容れないところだ。それを明確に、否定しなくてはならない。
「でも、新しい
キッパリと否定されても、ロイスルはいささかも不都合に感じていないように、涼しい顔だ。
こと交渉においては、最初は吹っかけるものだ。ロイスルの狙いは、この先にある。
エリカは話を続ける。
「ロイスル、あなたはトネルダ伯爵家のことを第一に考えているの?」
ロイスルは馬鹿ではない。その証拠に、エリカの言わんとするところを、一瞬で捉えた答えを返す。
「まあ、僕は次男だからね。家を継ぐことはない、だが、魔法使いとしてこのノクタニア王国において人生が生きづらいことは百も承知だ。君たちは知らないだろうが、我が家には義弟義妹がいる。王国各地で魔力を持つというだけで偏見や差別のもとに捨てられ、他国へ売り飛ばされかけた子どもたちだ」
ああ、やっぱり、とエリカは
「他の魔法使いの家はそこまで養いはしないだろうが、我が家は余裕があるから受け入れた。そして、正直に言おう、僕は彼らのためにも『
物語において、悪役が悪役たる理由は必要だ。『ノクタニアの乙女』ではシナリオ中にそれがすべて語られたわけではないものの、設定はなされているだろうとエリカは踏んでいた。
魔法使いに対する差別は、ロイスルが悪役とされる設定の一つであり、今はロイスルの悪役としての行動を決定づける根源にあるものだ。『
一つ間違えれば、エリカだってその差別を受けるはずだった。
「分かるか、
ロイスルの言葉には、いつの間にか熱がこもっていた。
しかし、それが演技かどうかなど、エリカにはどうでもいい。エリカにできるのは、ロイスルや魔法使いたちへの同情でも憐憫でもなく、
「だったら、尚更『
ここまでお膳立てすれば、あとは本当のヒロインに任せられる。ベルナデッタはハッと閃いたらしく、興奮気味にエリカの後を継いだ。
「そう……そうよ、お姉様! 私たちはもう、魔法使いと協力して新しい技術を作ることができる! もちろん魔法使いの研究も支援するわ、『
ベルナデッタはやってやったと満足げな笑みをロイスルへ向け、「そうよね?」と同意を求めた。
すると、ロイスルはベルナデッタへ拍手を送った。
「ふう、やれやれ。そう簡単には行かないか」
負け惜しみのようなそれは、悪役としての〆のセリフだ。指摘するのも野暮だが、エリカとしては最後の一押しをしておく。
「ロイスル、自分のところの『
「ああ。それの何が悪い? 誰かが悪を引き受けなければならないこともあるさ」
「知っているわ。でも、露悪的にしなくてもいい。ベルがいるんだから」
ロイスルは自嘲気味に顔を背けた。この男、最後まで悪役になろうとしていた。
(『
やっとのことで、ヤマは越えた、とエリカは確信した。ロイスルにもまた悲劇を迎えるエンディングルートが残っていたものの、ベルナデッタとの協力、『
内心安堵しながら、エリカが自分の前にあったトロピカルジュースに手を伸ばそうとしたそのとき、そこには空のグラスしかなかった。
ほぼ反射的にエリカはキリルを睨む。こいつ、私の分のトロピカルジュースを飲んだのか、というエリカの厳しい叱責の視線から逃れるために、キリルは苦し紛れにとんでもないことを口にした。
「つまり、えーと、
即座にエリカはキリルの頭を引っ叩いた。
「キーリール! バラすな!」
「うわっ、すまん!」
すまんで済めば警察も騎士もいらない。いや、むしろキリルがここまで黙っていてバレなかったことが奇跡なのかも知れなかった。
幸いにして、ロイスルは
「なるほど……まあ、王侯貴族にだけ効かなくなるなら、まだマシか」
「『
「そのために
抜け目なく『
「反抗の手段を残さないのであれば、君たちを権力者の犬と見做しただろうが、そうではないなら——我々魔法使いを長期的な視野で助けるつもりがあるなら、やってみるといい。今は協力してやろうさ。さて、これからの話をしよう」
ロイスルのどこか憎らしい物言いは変わらず、しかし協力する意思は本物のようだ。エリカもベルナデッタも、目を合わせて喜んだ。
一方、キリルは追加のトロピカルジュース注文に行くよう、エリカに椅子を蹴飛ばされていた。