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第37話 変化、あるいは

 昼前、王都の下町もにわかに活気づき、あちこちで行商人たちが家々を訪ね歩いている声が、アメリーの家の中にも聞こえてきていた。

 それは季節が巡って夏に入り、暑さを乗り切るために行商人の運んできた搾りたての果実ジュースや薄めた果実酒があちこちで出回り、飲んでみたいと思う反面、アメリーはなんとなくはしたないような、恥ずかしいような気がして、買いに出かける気が起きなかった。暑さのせいかもしれないが、今はおそらく、キッチンでたっぷり水を注いだ真鍮製ケトルを沸かしているエルノルドの存在のせいでもある。

 ふらりとやってきては作業の進捗を尋ね、前と同じようにアメリーの細々とした家の悩みを解決していくエルノルドは、明るい青のシャツの袖をめくり、手際よくお茶の準備をしていた。棚から茶葉を取り出し、ポットと茶漉し、温めたお湯を入れて蓋をしたティーカップを二つ用意して、ついでにお土産のクッキーを皿に出している。その姿は伯爵家嫡男には思えないし、ましてや——この国でもっとも権勢凄まじいエーレンベルク公爵家の血が流れているとは思えない。

 そんなことをぼうっと、キッチンの入り口で考えていたアメリーへ、エルノルドが声をかけた。

「アメリー、どうしたんだ?」

 振り返って、アメリーの様子を窺うエルノルドの顔には、心配の色が見える。

 急に話しかけられたアメリーは、慌てて釈明した。

「いえ、その……お湯を沸かしてもらって助かる、と思って。一人じゃお茶も淹れられない

から」

「君に雑事は任せない」

「何よ、私にはできないとでも? そのくらいはできるように……なりたいと思っているわ」

「無理はしなくていい。家事はマリステラが順次教えてくれる、という話だろう?」

「むうー」

 そのとおりではあるが、最近は暑くて年老いたマリステラに無理をさせられず、アメリーは少しずつ自分で家事をしようと奮闘していた。もっとも、キッチンで小火を出した手前、料理以外のこと——廊下の掃除や洗濯の手配など、些細なことから始めている。

 いくら実家で悲惨な目に遭っていようと、所詮名家の令嬢なのだとアメリーは自分自身の立場を痛感していた。本来なら、アメリーは生まれてから死ぬまで、雑事など何もしなくていいのだ。必要とされるのはその血脈であり、それ以外はどうだっていい。無論、平民ならそんなことは許されず、できることをする、できることを増やしていく、それが生存のために必要であり、不可欠だ。

 それがどうにも、アメリーには羨ましく思える。出来もしないのに、やってみたいという気持ちさえ湧いてくる。お嬢様の楽観であり身の程知らずなのは分かっている、それでもという欲望がふつふつと心の底から少しずつ湧いてきていた。

 それはそうと、アメリーはずっと胸に抱えていた話をようやく切り出す。

「エルノルド。話しておきたいことがあるの」

「改まって、どうしたんだ?」

「ほ、ほら、ホテル『ノクテュルヌ』でのこと。ずっと思い出したくなくて、でも向き合わなくてはいけないと思って」

 エルノルドは、「あれは」と言いかけて、口をつぐんだ。どうやらエルノルドにとっても思い出したくない出来事のようで、あの日以来二人は何事もなかったかのように振る舞っていたが、それも限界が近づいていた。

 それはアメリーが自分というものを持ちはじめたからであり、何かをできるようになりたいという切なる願望を持って、やっと行動に移すことができるようになった結果、エルノルドと正面から話をしようと心に決めたのだった。

「私は……あなたのことが好きよ。でも、それは恋しているとか、結婚したいとか、そういうのではなくって……その」

 アメリーがどう言えばいいのか迷っているうちに、エルノルドが答えをすかさず誘導する。

「つまり、友人として評価してもらっている、ということでいいのか?」

「そ、そういうものかしら」

「俺も、君と仕事ができて幸せだと思う。職人として腕がよく、仕事に真摯で、期日を守る」

「そ、そう。それは、褒められて悪い気がしないわ」

 褒められ慣れていないせいか、アメリーは照れを見せまいと淑女らしく顔を逸らす。ここに扇子があれば顔を隠せたのに、という思いをなんとか振り払い、アメリーは思い切って一歩踏み出した。

「だから、私はあなたの力になりたいの。どうすればそうできるかしら? それとも、何もしないほうが、あなたのためになるのかしら……ずっと、悩んでいるの」

 言葉が上手くまとまらず、アメリーはそれきり黙った。エリカやベルナデッタから聞いた、『のろい』や解呪薬リカースワクチン、それにエルノルドの本当の出自、それらは本来、アメリーには関係ないはずだった。しかし、聞いてしまった以上、何かをしなければという小さな焦燥感もアメリーの心に生まれていた。

 何かをしてあげたい、でも、自分には何ができるだろう。針仕事以外にできることを探そうと、家事をしてみた。しかし、ろくにできなかった。こうしてエルノルドに尋ねようとしても、上手く話ができない。

 どうすれば、とアメリーが自問自答しているうちに、ケトルを火から下ろしたエルノルドが何かを察した。

「アメリー」

「な、何?」

「君がまったく何も知らないとは思わないが」

 何か、重大なことを話そうとしているエルノルドを、アメリーが見つめる。

 急かすことはできず、さりとてもどかしく感じるほど焦るアメリーだったが、不意に耳へ叩き込まれた騒音によってそれらは吹き飛んでしまった。

 それは、アメリーの家の扉を叩く音だ。しかも、階下からの叫び声も追加される。

「アメリー、お邪魔します! 開けてー!」

「アメリー、今日はクロワッサンを買ってきたぞ!」

 どちらも、アメリーにもエルノルドにも聞き覚えのある声だった。エルノルドは鬱陶しそうに、対してアメリーは、笑いが込み上げてきて口元を手で抑えている。

「……何だあれは」

「で、出てくるわね。ふふふ」

 そう言って、アメリーは早足で玄関へ向かった。

 ちょうどエルノルドがポットにケトルのお湯を注ぎ終えた途端、廊下と階段を騒がしく駆けてくるエリカとキリルがキッチンへ飛び込んできた。

「あ、いた! エルノルドいたわ、キリル!」

「そうか! これで探しにいく手間が省けたな!」

 二人を見たエルノルドは、美形が台無しなほど実に嫌そうな顔をしていた。

「いきなり上がり込んできておいて、無礼だな。俺に用事があるのなら、アメリーを巻き込まなくても」

「大至急! 伝えたいことがあってきたの!」

 言葉を遮られた不機嫌なエルノルドは、エリカの衝撃発言によって不幸なエルノルドになる。

解呪薬リカースワクチンの件で、ロイスルがエーレンベルク公爵と長女エレアノールに『のろい』をかければいいとか言い出したから、急いで別の手段を考える必要ができたの! お願い、二人とも協力して!」

 言い終わったころ、やっとアメリーが追いついてきた。キッチンの入り口で、エリカとエルノルドが微妙な雰囲気を漂わせていることに気づき、なぜかあたふたしている。

 エルノルドが、深く深く、ため息を漏らした。

「……エリカ」

「それで色々相談したいの、時間はある?」

「お前、馬鹿か?」

「はあ!?」

 罵倒に反射的に威嚇を返したエリカへ、エルノルドは遠慮なく怒りをぶつける。

「こっちがどれほど苦労して水面下で準備を進めてきたと思っている!」

「だからそのチャンスが来たって報告に来たんでしょ!」

「大声で喋るな! お前には本当に秘密も何も喋れないだろうが! その上、勝手に他人の秘密を探ってくる!」

「今はその話はどうでもいいの!」

「うむ、そのとおり! 一刻も早く救出に移るため、クロワッサンを食べよう!」

 間に入ったキリルの手には、大きな紙袋があった。大量のクロワッサンが詰め込まれた袋を、そのままエルノルドへ押し付ける。

 エルノルドはクロワッサンを放り投げそうになっていたが、アメリーがちょうど止めに入った。

「エルノルド、お茶にしましょう」

「アメリー、君まで」

「お腹が空いていては、いい考えが浮かばないし、針仕事も上手くいかないわ。座って、お茶を飲みながら彼女の話を聞いても、時間の無駄にはならない。でしょう?」

 意外なことに、アメリーがエリカを擁護して、話をしようと言い出した。控えめで騒がしさを嫌う令嬢だったアメリーの変化に、エルノルドは狐に摘まれたような、憮然とした態度ながらも、招かれざる客人二人を受け入れることにしたようだった。

「全員座っていろ、茶を淹れる」

「私、ミルクと砂糖多めね」

「なら俺は砂糖のみで」

「うるさい、勝手に後でやれ!」

 エルノルドは注文の多い客人に怒り、エリカとキリルは怯まず無視して、クロワッサンの皿を棚から出しはじめた。

 突然、込み上げてくる笑いを必死で抑えながら、アメリーがこう言った。

「ふっ、ふふ……エルノルド、そうやって怒るのね、あなた」

 いきなりのアメリーの言葉に、エルノルドは驚いていた。

 アメリーは何かに吹っ切れたように、エルノルドへ微笑みかけた。

「それさえ知らなかった。だめね、私。こんなに近くにいてそんなことも教わろうとしなかった。私にあなたに恋する資格なんて、ないわ」

「そんなことない! 大丈夫、アメリーならできるわ!」

「そうだそうだ! 自信を持て、アメリー!」

「外野がうるさい!」

「ふふふっ」

 アメリーを応援するエリカとキリルへ、エルノルドがミトンを投げつけた。キリルがあっさり受け止めてキッチンに戻し、さらにクロワッサンとクッキー皿を持って居間のほうへエリカとともに逃走する。

 エルノルドはその二つの背中へしょうもない悪態をつき、咳払いしてからまた笑いを堪えるアメリーへ視線を向ける。

 売るに値する作品の制作者、実家に見放された貴族令嬢でしかなかったアメリーの横顔からは、うれいの影がすっかり消え失せていた。

 美しいひとを見て、見惚れるのは自然の反応だ。

 ほんの数秒だったが、何もかもをすっかり忘れて、エルノルドはアメリーに見惚れていたのだった。

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