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第9章 ここから先は未定の運命

第38話 急転直下

 ——一体いつから、相手が大人しく待っていてくれると思い込んでいたのだろう。

 エリカがそう後悔したころには、目の前で友人が命を賭けベットしてしまおうとしているところだった。





 その夕方、エーレンベルク公爵家の使者が突然エリカを訪ねてきた。

 否、その使者はエリカよりもずっと上の位の貴族で、エリカをエーレンベルク公爵家の客人として扱い、ニコニコと笑顔を絶やさない。

「エリカ・リドヴィナ様。お待ちしておりました。私、エーレンベルク公爵閣下より命じられ、あなたをお迎えにまいりました、ハンディア伯爵ヴェルトナーと申します」

 そこいらの貴族の屋敷にいる老練な執事よりもよほど執事らしい、五十路ほどの背筋がまっすぐに伸びた男性は、嫌味一つない口調でエリカへうやうやしく一礼した。

 驚いて対応が遅れ、エリカが何も言えないでいると、ヴェルトナーは少し離れたところに停車していた自身の真紅の馬車を呼び寄せ、扉を開かせる。これまた立派な、四頭の見事な芦毛の馬が引く大型の馬車だ。その豪華さもさることながら、維持費を考えると大貴族くらいしか所有できない逸品である。

 赤を中心にまとめた派手な衣装の御者とフットマンが馬車の周囲を取り巻き、エリカには逃げ場さえ残されていない。こんな日に限ってキリルはここにいないのだから、エリカは天を仰ぐ。

 果たして、自分は命運が尽きたのか、あるいは謀略に負けたのか、と。

「そう、ですか。では、せっかくのお誘いを断るわけにもまいりません」

 仕方なく、エリカはヴェルトナーの指示に従い、馬車へ足を踏み入れる。

 運よく、ルカ=コスマ魔法薬局から退勤した直後のことで、サティルカ男爵家屋敷に押しかけられないでよかった、とエリカは心の底から安堵したものである。もしあの叔父にこのことが知られでもすれば、どれほど社交界にエーレンベルク公爵家との繋がりを誇大喧伝されてしまっていたやらだ。

 馬車の中もサロン顔負けの豪奢さで、ふわふわの起毛生地が張られた長座席に座ってみれば反発で体が浮くほどだし、赤い馬車の壁や扉には金の縁取りや装飾があちこちに散りばめられている。一緒に乗り込んできたヴェルトナーは手慣れた様子で御者へ合図を出し、エリカの対面の席で優雅に長い足を組む。

 馬車の窓には緻密なレースカーテンがかけられ、外から中の様子を窺うことはできないようになっている。つまり、エリカが連れ去り同然に運ばれていくさまを、誰も察知できないわけだ。

 何を喋るべきか、それとも喋る必要はないかを考えている矢先、ヴェルトナーはエリカへ笑顔を向けた。

「何、そう緊張なさらずとも、あなたも公爵閣下にお会いしたいと手紙を送っていたそうではありませんか。公爵閣下はご多忙であるため、これと決まった時間を定めて面談することが難しいものですから、突然のお誘いとなってしまいましたが」

「そうでしたか、それは貴重なお時間をいただき感謝申し上げなければなりませんね」

 エリカは上手く笑えなかった。ヴェルトナーの言い分が嘘だと分かっている、これはただ単にエーレンベルク公爵が先手を打ち、己が優位に立てるタイミングで奇襲を仕掛けてきたも同然なのだ。でなければ、ちょうど護衛のキリルが王城の所用で外に出ていて、近くの公園で待ち合わせしているときにやってくるものか。

 逆に言えば、そこまで分かっていても満足に態勢も整えないままついていくしかないのがエリカ側の現状だ。

 今のエリカの手元には、一つのハンドバッグしかない。貴族令嬢が持つには少し大きいだけの、シンプルな絹のスクエアバッグだ。

 しかし、それもヴェルトナーは目ざとく睨む。

「失礼ながら、そのハンドバッグの中身を確認させていただいてもよろしいでしょうか? 公爵家で使用人たちの前で持ち物確認をするよりも、ここでなら他人の目はありませんからね」

 それはエリカをさりげなく気遣ったように見せかけて、この目で確かめなければならないという念押しだった。防犯上、あるいはエリカが敵対しないとは限らないから、非力な女性のハンドバッグさえも検査する——それ以外にも理由はあるかもしれないが、ここでエリカが拒否する道はない。

 すぐにエリカはハンドバッグの口を開けて、ヴェルトナーへ差し出す。

「お気遣い感謝します。では、ご確認くださいませ」

 微笑みつつも、ヴェルトナーの目は険しい。ハンドバッグの中へ手を入れ、ハンカチや化粧ポーチも開けて確認する徹底ぶりだったが、凶器の類などあるわけがなかった。

(私がこの手で誰かを傷つけるとか、できるわけないもんなぁ……下手に護身用の武器とか持ったって怪我するだけだし)

 同じく、エリカはデイドレスの腰にあるポケットをひっくり返してヴェルトナーに見せびらかしてみたが、糸屑が一つ二つと落ちただけだった。それもちょっと恥ずかしいが、ひとまずエリカは宣言する。

「ご心配なく、ヴェルトナー様。私は確かに魔法薬調剤師ですが、誰かを毒殺なんてできません」

「ご気分を害されたならば、これは失礼を。邪推と思われるかもしれませんが、公爵家は敵が多いものですから」

「いえ、当然の確認だと思います。ただ」

「ただ?」

「私はエーレンベルク公爵閣下に死なれては困る側の人間です。それだけは確かです、あとはそうですね、ドミニクス王子殿下も同じ意見をお持ちです」

 ようやく、エリカはニコッと笑えた。ぎこちない、少しばかり獰猛な笑みだったかもしれない。ヴェルトナーの頬が一瞬引きつったのを、見逃さなかった。

 ヴェルトナーはエリカのハンドバッグを返し、王都の一等地にあるエーレンベルク公爵邸到着まで、微笑むベテランの執事然とした役割に徹していた。

(とりあえず、伯爵を使者や家宰かさいとして顎でこき使えるくらい、エーレンベルク公爵は力を持っているとして……それを私に送り込んだのは、何らかのメッセージがあるのかなぁ。それとも、単に私を客人として迎えたいだけ? そのあたり分かんないわー……もしキリルがいなくてよかった、ってことになるなら、さてどうやって逃げよう)

 事態は割と悪い方向へ向かっているかもしれない、という悲観論を念頭に置いて、エリカはこの状況の打開策を頭の中にいくつか描いてみる。ヴェルトナーの話に相槌を打ちながら、外の街並みの街灯に火が点る夕暮れを見送って、しばらくすると一面が高い鉄柵に囲われた敷地のそばの道を馬車は走りはじめた。

 ゴミ一つなく、刈られた芝さえも均一で、鉄柵に錆びはない。どこかから呼び込みや怒声が聞こえてくることもなく、馬車は何の障害も踏み越えずにスムーズに進む。これがどれほど異常なことかエリカは知っているし、ヴェルトナーはあえて触れない。

 この、ノクタニア王国王都の中心部において、人口過密の地域で人の声が聞こえないことはありえないし、石畳が真新しく欠けも傾きもない状態で維持されていることもおかしい。まるで、この地域だけは人通りの一切がなく、古今の専用の道であるかのように。

 ノクタニア王城でさえありえないそれが実現できるのは、やはりエーレンベルク公爵家だ。この国でもっとも富を手中に収め、権力を掌握し、広く派閥を形成している大貴族。エルノルドはヴェルトナーと同じ伯爵家の嫡男でしかなく、なのに母一人のためにエーレンベルク公爵家と敵対しようとした。あまりにも無謀すぎると頭では分かっていたつもりだったが、実際に屋敷へ来てみれば一目瞭然、今、エリカはエーレンベルク公爵家がこの土地の支配者であることをまざまざと見せつけられている。

 実際にエーレンベルク公爵家がエルノルドを始末しようと思えば、それこそ労力は塵を吹き飛ばすのと何ら大差ない。エリカもまた同じ扱いだ。違うのは、エリカにはドミニクス王子という後ろ盾があり、エーレンベルク公爵家と敵対したいわけではないということくらいだが、そんなことはエーレンベルク公爵の気分次第でどうにでも変化してしまうだろう。

 一貴族の屋敷の敷地というには広大すぎる道のりがやっと終わるころ、夕日はとうに落ちていた。エーレンベルク公爵家邸の正門には、砦かと見紛うばかりの大理石造りの衛門が構えられ、何人もの衛兵がやはり赤と金の制服を着て待っていた。

 ヴェルトナーがゆっくりと停止した馬車の窓を開け、近づく衛兵へこう言った。

「例のお客人だ。他の訪問はあるかね?」

「すでに三件、伯爵閣下が最後になります」

「うむ、けっこう。開けてくれ」

「はっ!」

 金属の重たい音が門に反響し、馬車の中までやかましい。おそらく、何らかの防犯目的の魔法道具の作動音が誤魔化されている、とエリカは見抜いた。

 馬車はまた走り出し、やっとヴェルトナーがエリカへ口を開く。

「これは個人的な興味なのですが、あなたのその髪は、魔力を持つ……というだけですか?」

「ええ、私は調剤以外に魔力を用いる手段を習得していませんので、髪の価値もそれだけです」

「いや、聞いたよりも鮮やかに光るものですから、それも髪がエメラルドのように見える。近くで見ると不思議です」

「よく言われます。何かの役に立てばいいのですけれど、あいにくと私の人生で役立ってくれたことはほとんどありません。調剤だって、魔力を使うのは鑑定のときくらいです」

「なるほど」

 ヴェルトナーは深く、何度か頷いた。彼にとっては不思議なもの、彼はきっと用事があっても魔法使いと直接相対したことだってないだろうし、話に聞くロイスルの弟妹のような境遇の人間を見たことさえないだろう。

 それが普通だ。ノクタニア王国の貴族はそういうものだ。『のろい』を依頼するとしても、行使する魔法使いと接する必要はほぼない。むしろ、避けたいとさえ思っているはずだ。魔法道具や『複合型魔法装置マルチツール』がどれほど便利で社会を変えていたって、開発者や魔法の研究者たちに目を向ける貴族はおろか、平民だってろくにいない。有用でいつも使っているにもかかわらず、宝石のような光沢を持つ髪の人々、魔法使いへ関心を払うことはない。

(だから『のろい』対策が遅れに遅れたわけだけど……うーん、貴族は助けなくてよかったとか、そんな展開にはならないでほしいわ)

 そんなエリカのささやかな願いは、ついぞ叶うことはない。

 エーレンベルク公爵家邸——ノクタニア王城よりもはるかに宮殿らしい、大理石の長大な屋敷は、入り口からではその全貌を見渡すことさえできなかった。赤い枝の樹木がひたすらに壁に寄り添い、夏というのになぜか赤やオレンジの蔦が生い茂る。大理石の白は、赤で埋め尽くされ、地面から屋根までエーレンベルク公爵家のシンボルカラーである赤一色だ。

 玄関口にせり出した大庇の下で馬車が止まり、ヴェルトナーに促されてエリカは中へと案内されていく。列になって待ち構えていたエーレンベルク公爵家の男性使用人たちは、体格がよすぎてどう考えてもエリカが太刀打ちできそうにない。キリルでいい勝負ではないだろうか、などと余計なことを考えているうちに、エントランスホールは女性の使用人たちが並んでいた。

 そして、その最前列に、見たことのある——正確には顔グラを、だが——人物がいた。その人物を前にして、意外だったのかヴェルトナーは慌ててエリカの足を止めさせ、進み出て敬礼した。

「閣下がこのようなところでお待ちくださらずとも」

 樽のような腹を抱えて、その人物は上機嫌だった。

「いいや、話を聞きたくてたまらなくなっただけだよ。ヴェルトナー、こちらのお嬢さんか?」

「はい。エリカ・リドヴィナ嬢、『真銀冠魔法薬調剤師ミスリルクラウン』を持つ我が国最高の魔法薬調剤師でございます」

 その人物は、濃い茶髪に、あちこちにグレーメッシュの入った髪をしている。鳶色の目は体につく脂肪の割に切れ長で、頬肉のせいで余計に細長く見えるようだ。

 採寸ぴったりの礼服はどこも完璧で、漆黒の長裾ジャケットと赤いズボンは互いに補完色を混ぜていた。特徴的なベストは髪と同じ濃い茶色で、少しは体型が締まって見えるように左側の丈が長い。

 その人物を見て、エリカは思った。

(この人が……そうには見えないけど、ううん、でも)

 彼の背後の女性使用人たちが、過度なほど緊張感を漂わせ、恐れている。

 傍目には、貴族の気のいいおじさんくらいにしか見えないその人物こそが——エーレンベルク公爵、へファトリス・レナ・アルミリアン・グロース・フォン=エーレンベルクだった。

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