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第39話 そこの床にいるのは

 エリカがエーレンベルク公爵家邸の中を歩いてみて、第一印象は困ったことに「普通」だった。

 使用人たちが誰も彼も、エーレンベルク公爵に恐れを抱いていることは一目で分かる。彼の道を邪魔する者はおらず、何一つとして障害なく彼のもっとも好む談話室へと自ら案内され、エリカは困惑したほどだ。

 貴族らしくもっと傲慢で、偉そうで、気難しくて、わがままで……そんなイメージとはかけ離れて、エーレンベルク公爵は親しみやすく、朗らかで、よく笑う。

「いやはや、これほどにも若いご令嬢だとは、まったく信じていなかったよ。物語に出てくるような魔女のおどろおどろしい老婆でも来るのでは、なんて思っていたことが馬鹿馬鹿しいくらいだ」

 その意見には、エリカからは何とも言えない。確かに魔法薬調剤師は数が少ないため、表に出てくるような熟達した人材はほとんど老齢の域に達している。エリカが完全に例外なだけだ。

 だが、それをいちいち門外漢であるエーレンベルク公爵へ説明したってしょうがない。

「まだまだ若輩者ですが、もしかして、年老いた魔女のほうが頼りになりましたかしら?」

「おお、怖いことを言いなさんな、お嬢さん。いや、決して頼りないとは思ってはおらんよ。何せ、君はドミニクス王子の病を治したのだろう」

「はい。それは確かでございます」

「ならば、それ以上の腕の証明はない。どのような姿であれ、私が話を聞くに値するだけの大人物だろうさ」

 エーレンベルク公爵が談話室の前に立つより先に、早足で使用人が重厚な扉を開く。もちろん、談話室にはすでにテーブルセッティングがされており、ソファに座ればすぐに話が始まるだろう。ヴェルトナーは閉まって行く扉の前で頭を垂れており、外で待っているようだが、見目麗しい執事たちが談話室の壁に並ぶ。護衛も兼ねた世話役だろう、彼らの前でどんな話をしようとも、外に漏れることはないに違いない。

 エーレンベルク公爵はさっさと、一番奥にある一人がけソファに遠慮なく座った。

「さあ、座ってくれ、お嬢さん。飲み物は何がいいかね?」

 ソファのビロード生地が破れてしまいそうなほど弾んで、エーレンベルク公爵は収まるべきところに収まる。

 しかし、対面のソファへ座る前に、エリカは気になることがあった。

「公爵閣下」

「うん?」

「その……床に、人が」

 エリカは目線を下へと向ける。

 それは、先ほどから視界に入っていたのだ。一人がけソファの向こうに何かがある、男性ものの革靴、いやそれは着用者もいるのでは——そう思って注意深く観察したところ、やはり予感は的中したのだ。

 間違いない。エーレンベルク公爵の座るソファの後ろに、人が倒れている。

 気にもしていなかったエーレンベルク公爵は、あっさりと指を差した。

「ああ、これかね」

 即座に執事が二人動き出し、ソファの向こうで倒れている人をエリカとエーレンベルク公爵の前へ引きずってきた。

 エリカにとって見覚えのある顔が、大きな青あざを二つもこしらえて、うなだれている。意識はないのか、両手足首を縛られた四肢に力は入っておらず、引きずられる間に靴は脱げてしまっていた。エーレンベルク公爵と同じグレーメッシュと濃い茶色の髪は乱れ、猛禽類のような鋭い目は開かれていない。

 そんな有り様であっても、エーレンベルク公爵は見向きもせず、世間話のように事情を説明してしまう。

「これはお嬢さんの婚約者らしいね? いや何、お嬢さんを利用してうちに恨みがあるからと何かしでかしそうだったから、先手を打ったのだよ。前から報告にはあったが、何かされてからでは遅いからね」

 これ、と言うのは、エーレンベルク公爵にとって名前も言いたくないからなのだろう。

 エリカのよく知るエルノルドが、すっかり変わり果てた姿で捕縛されている。その事実にエリカは身震いしかけたが、奥歯を噛み締めて自身の体を制御する。そして、心の中で自分へとしっかり言い聞かせた。

(落ち着いて、エリカ。ここで怪しい動きをすると、何もかもが台無しよ)

 エルノルドの件は、ひとまず脇へ置いておこう。今はエーレンベルク公爵との面会が叶った、その千載一遇のチャンスを捨てるわけにはいかないのだから。

 冷静であろうと努め、エリカはエーレンベルク公爵へ反駁はんばくする。

「一つよろしいでしょうか? 私はもう、彼とは婚約を破棄することになっています。ですから、関係は」

「知っているとも」

「え?」

「お嬢さんはとても賢い。それに目的のためには手段を選ばない狡猾さ、うむ、実に素晴らしい! そうでなくては、私を生かす気があるというのも信用できないところだった! いやはや、よかったよかった」

 エーレンベルク公爵の哄笑こうしょうが談話室に反響する。

 何もかも筒抜けだった。エルノルドとの婚約を破棄して、エーレンベルク公爵への接触に備えて……解呪薬リカースワクチン接種のための下準備にとエリカが積み上げてきた努力は、やはりエーレンベルク公爵も知るところだった。

 それは別にいい、その可能性も考えてあった。だが、エリカは目の前の太った男の思考に、まったく共感も承服もできなかった。自分の孫が暴行を加えられて床に放置されていても、無視して笑顔でエリカと会話しようとしている。ぴくりとも動かないエルノルドを見ていると、エリカは不安が胸に渦巻いてたまらないというのに、だ。

(な、何がよかったっていうのよ……エルノルド、死んでないよね? 息してる!?)

 エーレンベルク公爵はもういいとばかりに手を振ると、執事たちはエルノルドを引きずって談話室の外へと運び出していった。まるで荷物か何かのようだが、おそらくエリカに見せつけるためだけにここへ運び込まれていたのだろう。

 当惑しきったエリカへ、エーレンベルク公爵は改めて、席を勧めた。

「さ、座りなさい。あれのことよりも、もっと重要な話をしなくては」

 エリカは無言で、エーレンベルク公爵の対面のソファに腰掛ける。何事もなかったかのように話を続けようとする姿勢に嫌気が差すが、どうしようもない。

 ともかく、ようやくやってきたチャンスは、きっちり果たさなくては。エルノルドのことはそのあとだ。エリカは意識を切り替えた。

「さて、『のろい』対策として、新しい解呪薬リカースが完成したと聞いたよ。ワクチン、だったかね。聞き慣れない言葉だが、どのようなものかな?」

 エリカは、実に事務的に、今まで何度となくしてきた説明を繰り返した。何も変わり映えはない、『のろい』を無効化する薬だ、ワクチンというのは体内に免疫を作るものだ、従来の解呪薬リカースとはまったく仕組みの違うものであり、効果も段違いであること。それに、血統に蓄積した『のろい』にも効果があることも付け加える。

 専門家でなくとも、感覚的に理解できるよう噛み砕いたエリカの説明を聞き、エーレンベルク公爵は素直に拍手を送った。

「お嬢さんは若いのによく調べている。そのとおり、我々大貴族は先祖代々、『のろい』をかけられつづけているし、それに対抗してさまざまな解呪薬リカースを使ってきた。私は運良く難を逃れているだけで、志半ばで『のろい』に倒れた先祖も少なくない。『のろい』があの陰険狡知な魔法使いたちによるものなら、ただ相手にかけて殺しておしまい、というわけはないだろう。末代まで何らかの影響が残るように仕向けているだろうさ。無論、それに関しては密かに研究させてきたが、なかなか成果が上がらず困っていたのだよ」

 癪だが、エリカは憎まれ口をしっかり心の奥に封印して、説明役に徹する。

「血統に残る『のろい』も、解呪薬リカースワクチンで解消することが可能です。おおよそ、すべての『のろい』——具体的には、本人以外の魔力による効果を体内で不活化させる、つまり『のろい』がもし発動しても風邪で寝込む程度で済むようになります」

「おお、それはすごい! しかし、疑問も残る」

「何なりとご質問を」

解呪薬リカースワクチンの完成を、なぜ魔法使いたちが許したのかね? よもや、彼らがあずかり知らない、ということもあるまいに」

「ご安心を。魔法使いたちが『のろい』以外の職を得るならば、もはや『のろい』にこだわる理由はありません。そちらは別途話をつけておりますし、後々きちんとご説明できるかと思いますわ」

「そうかそうか! いやぁ、実に素晴らしい! 非常に気の利くお嬢さんだ、うむ」

 エリカはうっかり、白々しい、という言葉が口から飛び出そうになった。どうせこれらの情報も、エーレンベルク公爵は配下に命じて事前に収集していたに違いないのだ。ベルナデッタとロイスルが主導する魔法使いたちとの共同事業は機密扱いなのだが、そのくらい容易に突破して内情を把握できるほどの権力者なのだから。

 ただ、複雑な話を先んじて理解をしてもらえているのなら、話は早い。そればかりは悪いことでもない。

 上機嫌のエーレンベルク公爵は、エリカへの褒美を忘れていない。

「あとは……おお、そうだな、お嬢さんからの要望を聞いていなかった。私に何を望むのか、言ってくれ」

 予想外の出来事はあったものの、ここまでは順調に、エリカの望む展開になっている。しくじらないよう、エリカは慎重に言葉を選んだ。

解呪薬リカースワクチンは、接種が必要な層、エーレンベルク公爵家をはじめ貴族たちに短期間で接種させる必要があります。『のろい』を完全に遮断するためでもあり、暗殺などを警戒してのことです。しかし、大規模なワクチンの接種というのはこの国では未だかつておこなった試しがなく、一見未知の薬に拒絶感を覚えてしまうことも考えられます。そこで、閣下から、影響下にある貴族たちへ解呪薬リカースワクチン接種を推奨、あるいは要請していただけないでしょうか?」

 すると、エーレンベルク公爵はあっさり了承した。

「なんだ、そんなことか。分かった、すぐにやろう。おーい、ヴェルトナー! ちょっと来てくれ!」

 壁際の執事の一人が動き、扉を開けて外で待機していたヴェルトナーを呼び込む。エーレンベルク公爵は一言、「新しい解呪薬リカースの件だ、至急進めろ」とだけ伝え、それだけで理解したのかヴェルトナーは呼び寄せた部下たちにあれこれ指示を出していた。

 流れがあまりにも迅速すぎて、エリカは呆気に取られる。思わず、感謝の言葉を忘れてしまいそうになっていた。

「あ、ありがとうございます」

「ははは、断られると思ったかね? 私とてどれほどこの国の貴族たちに指図できるか、自覚がないわけではないよ。君の話が嘘ではないなら、『のろい』をかけられる可能性のある誰にとってもメリットのある話ではないか! それを私から勧め、彼らは感謝する。ああ、無論、感謝の言葉を受け取るのは君が第一だとも」

(公爵にとっても、配下の貴族たちに恩を売る機会でもあるのね……まあ、善意だけで協力されるよりはマシか)

「細かい話はヴェルトナーと詰めてくれるかね? あれは有能な男だ、万事よく手配するだろう」

「承知いたしました。そのように」

 そんなことよりも、エリカは話がついたのならさっさとこの場から離れたかった。エルノルドをどうにかしなくてはならないが、エリカ一人では今は何もできない。ならば、他の誰かに助力を請わねばならない。あるいは——。

 そんなときだった。まだ開かれたままだった談話室の扉の影に、やけに慌てているメイドがうろうろしていた。

 壁際の執事の一人がメイドに近づき、何やら短い会話をしたのち、エーレンベルク公爵のそばにやってきた。

「失礼いたします。閣下」

「どうした?」

 執事がエーレンベルク公爵へ何かを耳打ちする。その途端、笑みさえ見せていたエーレンベルク公爵の顔が、明らかに強張った。談話室の空気さえも変えてしまうほどに、その緊張は誰もが恐怖し、エリカも無意識のうちに身構えていた。

 よほど重大な、何かが起きた、としかエリカには思えない。

 ところが、あろうことかエーレンベルク公爵は、エリカへ向けて、口を開いたのだ。

「お嬢さん、病人を診ることはできるかね?」

 それは意外な問いだった。エリカはきょとんと一瞬だけ思考が止まったが、すぐに自分の専門分野内だと判断した。前世とは違い、魔法薬局では魔法薬調剤師によるある程度の問診も行われるため、できないことはない。

「診察ですか? 多少なら心得があります」

「よし、ではお嬢さん、少し診てほしい者がいる。報酬ももちろん払おう、頼めるかな」

「承知いたしました。では、すぐにでも」

「助かるよ、何せ我が家は広くて医者を呼ぶのも時間がかかりすぎる」

 エーレンベルク公爵は満足そうに、耳打ちした執事にエリカを案内するよう命じた。この場から離れられるならなんだっていい、エリカはスカートの裾をつまんで急いで先導する執事のあとをついていく。

 その間にも、エリカはエルノルドの心配、ではなく、について考えを巡らせていた。

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