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第三十七話 ウィルの忘れもの

 ——一方、エドワード邸の屋敷内では……。


(…………)


 バタンっと玄関の扉が閉まる音が聞こえる。

 つまり、主人がようやく帰宅したのだ。

 その音に反応したジェフは、主人の出迎えに向かう。


「あ、坊ちゃん! おかえ……」

「………………」


 しかし、なぜか主人の様子がおかしい。

 どうも顔が前髪に隠れてあまり見えず、下の方ばかり視線を落として早目のスピードで歩いている。

 ジェフが挨拶を交わしても、無言のまま横切り自分の部屋へ一直線に向かっていくばかり。


(おや……? 坊ちゃんが下を向いてらっしゃる?)


 そんな主人を見て、ジェフはどうしたものかと首を傾げている。

 ひとまず、今日の出来事の真相を探ろうと厨房へ紅茶を用意することにした。


「坊ちゃん、失礼します。紅茶をご用意できましたので……」

「…………」


(返事すらないなんて……? もしや坊ちゃん、百合子様と……? えっ、まさかとは言いたくないですが、何かあったのでしょうか?)


 あまりにも無言になる時間が長い。

 何も話したくないということは、もしかしたら残念な結果になったのかとジェフは心配になっている。


「坊ちゃん? 紅茶淹れまし……」

「ジェフ」

「は、はい」

「済まないが、今は一人になりたい。しばらく席を外してくれ」


 ようやく、主人から呼ばれて一声上げたと思ったら、まさかの退出の令を出す。

 口調としては普段とは変わりないものの、声色のトーンがいつもより低く感じていた。

 主人の俯き加減に心配が拭えないジェフだが……。


「……かしこまりました。また何か御用の際はお呼びくださいませ」

「……」

「では、失礼します」


 ウィルは、執事の声を傾けても無言で貫く一方。

 ここは主人の指示に従い、一旦引く方が賢明と判断したジェフは部屋から出て後にした。


(……ふぅ~……)


 ジェフが退室し、ようやく一人になってひと息つくウィルだが……。


(緊張どころじゃなかったぁ……。もう、本気で苦しかった……)


 背中を伏せがちに丸め、壁にドンッと右の拳と腕で支えもたれつつ、シャツの胸元をグッと握り締める。

 安心感も出てしまったせいで腕だけでは支えきれず、背を壁にもたれてその場に座り込んでしまった。

 時折、息が荒く吐き気もしてしまいそうになるが、なるべく落ち着かせようと整えながら堪えている。

 無理に慣れないことして、あの緊張感のある空気が相当強く張り詰めていたことだったのだろう。


(あの笑顔といい、柔らかくて温かい表情……。今まで苦手な女性と出会うことが多い中なのに、こんなに惚れるような人が現れるとは……)


 百合子の魅せる優しい姿とはいえ、見るだけでも彼女に対する欲情が衝動的に駆られてしまう。

 心の安定感が崩れそうで持たなくなり、胸の苦しさに耐えきれなく感じて締め付けられそうになっている。

 しかし、今日の出会いや会話だけでも一歩は踏み出せたものの、まだ面と向かって話せていない彼には程遠い道のりだ。


(俺、今のままでは……。あぁ、くそッ! ダメだ、ますます俺の想いが……)


 今までなら迫ってくる女性はともかく、どんなに大人しくても目の前にいるだけで逃げてきていた記憶ばかりだ。

 一目惚れしてしまったウィルに、こんな尋常ならない恋心が生まれてこようとは思わなかった。

 何としてでも、まずは百合子を「恋人」として手に入れたい一心で募らせている。

 この道のりを、次のステップへ移す為にどう乗り越えていくのか良い手段なのかを。


『また、お手紙……待ってます』


(まぁでも、ひとまず最後はなんとか文通を続けられそうで良かった。そこだけは安心した。だが、まだまだ彼女を……)


 かろうじて、百合子からの快い返事で繋げることに成功して安堵するウィル。

 しかし、今回のことを顧みていると、彼女に関してまだ全く知らないことが多すぎることに実感した。

 いや、自らあれこれと聞いてしまうと彼女が困惑して嫌がらないだろうかと。

 それをなるべく回避したい理由でもあった。

 次なる一歩を進む為に何か方法を……と考えていたら、ふと前回の手紙のことを思い出す。


(あっ、そうだ! 次回会う時は本を貸してあげないといけなかった。しまった……忘れてはならないものだ)


 ウィルには、まだ解決出来ていないものが一つあった。

 百合子はブレス語で書かれた物語を読みたいけど、どの本を選ぶのがオススメなのか悩んでいることだ。

 早速、彼女が興味を持ちそうな本を探すことにした。


(彼女、ブレス語で書かれた原作本を読みたいって前に言っていたし、これならまた逢瀬の約束を交わせるかも)


 それによって次の手紙に書く際や再び逢瀬を交わす時に、話題が盛り上がるだろうと。

 ウィルは、壁一面設置された本棚に並べられた本から選りすぐる。

 ジャンルは様々で、総合誌から流行りのミステリーマガジンまでと幅広く扱っている。


(確か……帝国内で今も流行っている本があったなぁ。昨年の創刊からずっと購入して読んでいたものなら)


 百合子に貸し出す本が決まり、予定を確認しながら次回の逢瀬を申し込もうと手紙を筆する。

 次回も今日と同じ日曜日にすることにした。

 ウィルも子供達と同じように百合子の声を聴きながら、物語を楽しんでいたいという理由だからと。


(ちょうどこの前、例のアレが完成して無事に届いたし彼女へのちょっとしたプレゼントになれる。喜んでくれるといいな)


 その本を渡す際、あることも一緒に添える作戦も忘れてはいない。

 それに百合子が気づいてくれたら、何か会話が膨らむだろうと淡い期待を持っている。


 ——全て彼女の為ならと事前準備をするウィルは、幸せそうな姿を想像しながら次の段階へ着々と進むのである。

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