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 飛香舎ひぎょうしゃ

 相変わらず榠樝は何かとこの場を使っている。


「それで私をお呼びになられたのか」

「碁の相手ならそなただろう」


 碁を打つ暇も無いような三年間だった。


 菖蒲紫雲英あやめのげんげ

 いまや二四歳にして式部大輔しきぶのたいふと参議を兼任する若手の出世頭である。


 更にはつい先日、菖蒲家当主の座についたばかりだ。


 妻である山桜桃ゆすらは、紫雲英の菖蒲家当主就任をもって里へ下がると宣言していた手前、渋々と、非常に不本意な顔で里下がりを申し出た。


 寧ろ夫婦の邪魔をしていた形の榠樝としては、申し訳なさの方が先に立つのだが、山桜桃はもっと榠樝の側に仕えていたかったという。


 諸々落ち着いたらまた出仕したいとの旨を厚く述べ、山桜桃は退出。

 榠樝の周囲はまたひとつ静かになった。


「そういえば、最近堅香子かたかごも見ないな」

「出産の為、里下がり中だ。先日、子が生まれた」


 ぱちり、ぱちり、と碁石を置く音だけがする。

 女房たちも居ない。

 煩い筆頭の二人は去り、先日まで榠樝の側を独占していた五雲国の王女も去った。


 平穏というよりは閑静である。


「寂しいのでは?」


 紫雲英の台詞に榠樝は少し息を止めた。

 瞬き程の間をおいて、何事も無かったかのように榠樝は石を置く。


「寂しいなどと言っている場合でも無いのでな。鳳梨どのが帰った。となれば五雲国が動き出す。気を引き締めて掛からねばならん」


「人質として留め置く手立てもあったのでは、と言うのは意地が悪いだろうか」


 榠樝はちら、と紫雲英を見る。

 長い睫毛が揺れ、強い眸に影を落とす。


「五雲国の動揺は、長い目で見れば不利な条件だったからな」


「一見すると虹霓国の益に見える。けれど五雲国が揺らげば諸国が揺れる」


「そういうことだ。大波が虹霓国にも押し寄せるだろうからな。早い所、収束してもらわねば困る」


しん州公が頻繁に秋波を送って来ているのだろう?」


「ここぞとばかりの機会だったからな。そう、光環こうかん州公も月白凍星つきしろのいてぼしに色目を使っているらしいぞ」


 五雲国より独立をするならば、今をいて無し。

 併合された国々は、そんな機運だったかもしれない。


「だが、虹霓国として表立って支援は出来ぬ。五雲国は仮にも同盟国だからな」


 紫雲英は石の表情を読み、榠樝の顔を見、また碁盤に視線を落とした。


「蜃のことは蜃に。光環のことは光環に、任せておけばいい。あなたは色々考えすぎるのだ。少しは周りに投げてしまえ」


 ぶっきらぼうな物言いの中に確かな気遣い。

 榠樝はくすりと笑った。


「そなたは変わらないな」


「そうか?だいぶ変わったと思うが」


 年齢としも重ねた。昇進もした。

 妻をも迎えた。


 何より、榠樝の婿がねではなくなった。

 ぱちりと石を置き、紫雲英は小首を傾げる。


 それでもこうして真向かって、碁を打っているのが不思議で。

 榠樝は眉を寄せている。


 蠱惑的な表情をするようになったと紫雲英は思う。

 随分と大人びて、美しくなった。

 顔貌かおかたちだけでなく、纏う雰囲気が。


 そう思う自分の心も、変わったのだと思う。

 紫雲英が目を細めるのに気付かず、榠樝は唇を噛んだ。


「……確かに腕は上げたかもしれんな」


「それはあなたの腕がなまったのでは?」


 榠樝が眉間にぎゅっと皺を寄せた。

 蠱惑的な雰囲気が消し飛ぶ。


 恨みがましい目付きと、膨らむ頬が子供めいて可愛らしい。


「相変わらず口が悪い」


「そうだろうか」


「ああ、そうだ。私にそんな口をきくのはそなたくらいだ」


 だいぶ榠樝が形勢不利である。

 榠樝はここからの巻き返しを思案し、口元に手を遣って考え込んで。


 それを見て、紫雲英は静かに微笑む。

 変わったものも、ことも、ひとも確かにとても多いけれど。


 変わらぬものも、ここには確かに存在している。


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