「
蔵人の声に、榠樝はまた考えに没頭していたことに気付く。
清涼殿、
日常業務が一息ついたところだった。
「ああ、すまぬ。聞いていなかった。急ぎか?」
「いいえ、ですがお早くご覧になられたいかと」
「うん?」
今や
五位蔵人として榠樝に仕えている。
あの病弱な子が立派になったものだ。
感慨深く榠樝は目を細める。
子が成長するのは早い。
自身も、深雪辺りには特にそう思われているのだろうな、と少しばかり苦笑もする。
「お
そっと差し出されたのは結び文。
正式文書の立て文ではない。
首を傾げつつ受け取れば、それは懐かしい香りがした。
榠樝は大きく目を
少し、震える手で丁寧に開く。
流麗な文字で綴られていたのは、一首の和歌。
あの日より
あの日から変わることなく、絶えずあなたを想い続けています。時が経ってもなお変わらずに、あなたを待ち続けている私です。
榠樝は泣きそうに笑った。
初めて恋文を貰った時から、もう七年も経つというのに。
もう二五歳だというのに。
上司らの覚えもめでたい左近衛中将であるというのに。
紅雨は今だ妻の一人をも迎えず、独り身を通している。
今も変わらぬ愛の誓いをくれる。
「お約束の時が来たと、左中将どのが申されました」
五雲国の王女の帰国。
ひとまず、ひとまずの区切り。
盤石とは言えないかもしれない。
だが、虹霓国は確かに五雲国の同盟国として、確かな位置を占めている。
王配の
そんな問い掛け。
「そうか。短くて五年、長くて十年。覚えていてくれたのか」
紅雨は忘れず、待っていてくれた。
吐息を零すような榠樝の呟きは、少しだけ震えていて。
六花がふわりと優しく微笑んだ。
「主上、紅雨どのだけではないことは、おわかりかと思います」
何が、と問うまでも無かった。
そっと差し出された結び文が更に二つ。
「
頭弁、左中弁にして蔵人頭。
笹百合に限って紅雨に後れを取ることはあるまいということも、理解している。
彼もまた変わらずに榠樝を想い、独り身を貫き通しているのだ。
だが、六花から恋文とは此れ
ぽかんとしてしまった榠樝に、六花がくすりと悪戯っぽく笑った。
「王配の
「いや、え、しかしそなたはまだ若い」
「十七になりました」
「私よりも四つも下であろう」
「はい。ですが主上。初めてお会いした時よりずっと、私はあなたさまをお慕い申しております」
打てば響く。
間髪入れぬ六花の返答に、榠樝は
大きく目を
「今はまだ従五位上、五位蔵人にして右衛門佐の身ではありますが、きっと主上に相応しい男になって御覧にいれましょう」
思いもよらぬことに頭が混乱して、思考が追い付かない。
ぱくぱくと池の鯉のように口を震わせ。
視線を逸らせた。
「少し、休む」
掠れた声で、何とかそれだけを言い置いて。
榠樝は逃げるように身を翻す。
「御意」
六花がゆるりと
混乱する頭で向かったのは
幼き頃より住み慣れた、藤壺の名をも持つ殿舎である。
何事かあると、足は自然とこちらへ向いてしまう。
榠樝はふらふらと
春は、
風がはらはらと藤の花弁を散らしていく。
一説には、藤は風が吹く度に花が散る為「吹き散る」の意でふじと名付けられたとも。
紫から淡紅色、そして白。
はらはらと舞う花弁は夢のようで、いつまででも見ていられる。
藤の花は変わらない。
いつでも、波立った心を静めてくれる。
「主上、はしたのうございますよ。そのように
不意に掛けられた声に驚いて振り返れば、出産のため里下がりをしていた筈の
「帰って、来ていたのか」
「ほんの今しがたでございます。お傍を離れ、申し訳ありませんでした」
庇に深く
少し丸くなっただろうか。柔らかさが増した気がする。
「いや、もっとゆっくりしてきてよかったのだぞ。子らも母と離れるのは寂しかろう」
「二人目ですので、慣れたものです。夫に
「
父が受領とはいえ
くすくすと笑う榠樝に堅香子は目を細める。
榠樝の手にある結び文を目敏く見つけ、堅香子が悪戯っぽく肩を竦めた。
「最近、お笑いになられることが減り、心配しておりましたが。……どうやらまた、騒がしくなりそうですわね」
榠樝は藤に目を移す。
「まだまだ盤石とは言い難いのに。誰も彼も、気が早いものだ」
風が強く吹き、花が一斉に散った。
目も眩むような花吹雪。
「いいえ、榠樝さま。今や虹霓国は確固たる地位を築き上げました。五雲国との同盟も揺らぎませぬ。そろそろ次のお仕事に移らねばならぬ時が参りましたのよ」
榠樝はぎこちなく振り返り、途方に暮れた子供のような顔をする。
堅香子が吹き出した。
「今も色恋は苦手でございますか」
榠樝は重々しく呻く。
「叶うなら。得意になっていたかったがな」
「五雲国王はお相手には不足でございましたか。夢では度々お会いになられているのでしょう?」
「あれのかわし方は少しわかって来た。だがな……」
「応用が利きませんことにはねえ」
榠樝は文を抱き締め、泣きそうに笑った。
「はは、恋文など貰ったのは、さて何年ぶりだろう」
「初めての恋文からは七年でございますね」
堅香子の容赦ない返答に、榠樝は今度こそ天を仰ぐ。
「七年かー。長いな」
「長いですわね。婿がねの方々の、その根性は褒めて差し上げても宜しいのでは?」
榠樝は天を仰いだまま、瞼を閉じた。
瞼の裏に透ける陽の光が血の色を透かして赤い。
じんわりと温かいものが広がっていくようだ。
「……随分」
「はい」
「随分と、私は愛されているのだな……」
泣きそうに零れた震える声に、堅香子は破顔した。
愛おしさに満ち溢れた笑みだった。
「当然でございますとも」