「ここから先、姿消さないとダメな場所に入るよー」
スズメをやり過ごしてしばらく進むと、アサリナ達魔法使いが、姿を隠さずに移動できる最後の町があった。
もう日が暮れていることもあり、アサリナが軽く挨拶をして、二人は宿までやって来た。
「憂鬱だ……そんなこと言ってる場合じゃないけど」
アオは夕食にと、アサリナが買ってきたパンを食べながらため息をつく。パンの中から溢れるジャムが思いのほか酸っぱい。
「えー、なんか傷つくなー」
ズイッと、アオの隣に腰掛けたアサリナが、アオの持つパンを取り上げる。
「なによ」
「これはあたしのお金で買ったのー。だからどうしようとあたしの勝手ですー」
パンを取り返そうと、アオが手を伸ばす前にアサリナはパンを口に詰め込んだ。いきなりのことにアオは不快そうに眉根を寄せる。
新しいパンを取ろうとしたが、その全てがアサリナに取り上げられてしまった。
「なんで?」
アオの冷たい視線を受けたアサリナは、口に入ったパンを飲み込んでから答える。
「そりゃー怒るよ! そんな嫌な顔ばっかりされてたら!」
姿を消すには、アオはアサリナに抱き着かなければならないのだ。さっきまでは仕方のないことだと割り切っていたが、それでも嫌な気持ちは消えない。そして今、こうして休んでいる状況だと、その嫌な気持ちが前面に出てきてしまうのだ。
「だって嫌だから仕方ないでしょ」
アサリナの言いたいことは理解している。それでも、アオはどうしても翠に対してまるで言い訳のように、過剰に嫌がってしまうのだ。
「別にいいでしょ、ちゃんと姿は消すんだし」
「それはそーだけどー!」
アサリナはそれはそれだと言いたげに、座るアオの前に立って腰に手を当てる。今は帽子を脱いでいるため、真っ白な肌が部屋の灯りを反射する。
「嫌がるぐらい、アオはあたしのこと嫌いなの?」
「なんでそうなるの?」
「だってハグするの嫌がるし! それにっ……あたしの名前……呼んでくれないし……」
「えぇ……」
最後は目を伏せて言ったアサリナに、アオは困ったように声を出す。
アサリナの名前を呼んだことはあると思うが、この流れだと、アサリナは一度もアオに名前を呼んでもらったことが無いと言うだろう。
ということは、アオもアサリナの名前を呼んだことが無い前提で話した方が良さそうだ。
正直に言うべきか、それとも――。
「あたしが嫌なら他の人に変えてもらえばいーのに……」
「あんたしか空いてなかったでしょ。それに、あたしのこと知ってるの、あんたとルドベキアだけだから」
「あんたって言ったあ! なんでー⁉ ルドベキアは名前呼ぶのに!」
ぽかぽかと両手でアオの肩を叩くアサリナ。
アサリナの見た目以上に幼い行動にアオは、疲れたな、と思いながら集中力を高めて姿を消す。
姿を消しても動けないため、肩を叩かれていることに変わりはないのだが、集中力を保つ修業にはなるかもしれない。
「なんであたしは怒ってるのにアオはしゅぎょーするのー‼」
「そこまで頭回るんだったら落ち着いてほしいんだけど……」
再び姿を現したアオが言う。
「そんなこと言って話逸らすんでしょー」
「面倒くさいな」
「めんどーじゃないよ! 理由を言ってくれればいーだけなのー!」
「えー」
「なんで嫌がるのー⁉ 本気であたしのこと嫌いなのー⁉」
今度はぽかぽか叩きから、肩を掴んでガクンガクンと揺らしてきた。
そして再び姿を消したアオにアサリナが叫ぶ。
「だからしゅぎょーしないでー‼」
「あーーーーーー!」
そして再び姿を現したアオ。
「アオ―!」
「分かったから」
その言葉に、アサリナはアオを揺らすのを止める。
「うえ……しんどい……」
「ごめーん……」
「別にいいけど」
頭を振ったアオはそれから答える。
「だって二人しかいなかったら名前呼ばなくても通じるでしょ」
すぐに浮かぶ理由には、翠以外の女の名前を呼びたくない――なのだが、だからといってそれを意地でも守るというつもりはない。それよりも優先することは翠を救うこと。そのためには、まずこの世界にいるスイを見つけなくてはならない。
それが今、一番優先することだ。
「でもあたしには名前があるんだよー! だからちゃんと名前で呼んでほしーのー‼」
そのため、機嫌を直してもらうために、アサリナの名前を呼ぶことなんて躊躇うこともない。そもそもなぜ躊躇わなくてはならないのか知らないが、その気になれば呼ぶことはできる。
「………………」
このまま無視をしてもいいだろうが、アサリナを怒らせてしまい、移動手段が無くなることは避けなければならない。
「…………………………」
だから今すぐに名前を呼べば解決で、これ以上面倒なことにならずに済むのだ。
「…………………………………………」
「無視しないでよー‼」
目に涙を浮かべたアサリナの声が宿に響くのだった。