辺りは薄暗く、鋭い牙のように山々が並ぶ、空を見上げると血管が這うように赤い線が引かれていた。
いつか見た光景にアオは自分の鼓動が大きく速くなるのを感じる。
なぜここに来てしまったのか。確か自分は今、スイとアサリナと一緒に休んでいたはずだ。
『怒』の世界でも、アオはここにやって来たことがある。その時は、この後恐ろしい鬼が現れたのだ。まさか今回もそうなのかと身構えると、微かに聞こえる人の叫び声をかき消すように足音を轟かせてやって来たのは、全身が赤く筋骨隆々、頭から黒い血が垂れているかのように見える髪を持ち、そこから覗く二本の黒曜石でできたナイフのような角が生えている。そして殺意に満ちた鋭く恐ろしい眼で碧を睨んでいる。その手にはあの時と同じで、触れただけ人間が挽肉にされてしまう金棒を持っている。
碧は自分の身なりを確認して、その姿が元の世界のものになっていることを知った。武器になる杖が無いし、魔法使いセットも着ていない。いつもの漢服姿だった。
これはあの時と同じ夢だと言い聞かせても、やはり鬼に睨まれた恐怖は夢とは到底思えないものだ。
ただ、今の碧は以前の碧とは違うのだ。これが夢だとしても、翠の感情を解放すればどっちみち地獄へ行かなければならないのだ。
その予行練習とまではいかないが、この恐怖を乗り越えなければ翠を救うことなどできない。
幸いにも鬼は一体、武器は無いができるだけのことはやってやろうと碧は臨戦態勢をとる。
夢ならばもう覚めてほしい――そう意識が逸れた瞬間、鬼が金棒を振り落とした。
それに瞬時に反応した碧は横に飛び、全ての意識を、鬼を倒すことに集中する。
『哀』の世界での修業の成果を見せてやろうと、碧は地面を蹴り鬼の背後に回る。それに反応した鬼が振り向きざまに金棒で薙ぎ払うが、それを跳躍して避けたアオは鬼の頭めがけて全力で踵を落とす。
鈍い音がして直後に鬼の地響きのような呻き声が轟く。
それから鬼は怒り狂ったのか、金棒で碧を叩き潰そうと何度も叩きつけてきた。単調な動きのため、一発一発冷静に避けていた碧は、金棒が叩きつけられたことで発生する風を使った仙術で鬼の皮膚を裂いていく。
鮮血が飛び散り、苦悶の声を上げる鬼の動きが徐々に鈍くなっていく。
そうなれば碧の勝ちは確定したも同然だ。
高く浮かび上がった碧は満身創痍の鬼に向かい落下。最初と同じ、頭にめがけて再び踵を落とした。
遂に膝をついた鬼が、地面を揺らして倒れ込む。
「やった……」
恐怖に打ち勝ち、鬼を退けた碧だったが、喜んだのも束の間、倒れた鬼が全身真っ赤なスライム状になり溶けたことにより、思いっきり顔を顰める。
「うえっ……なに、気持ち悪い……⁉」
ドロッと原形を留めていない鬼を見ていると不意に男の声が聞えた。
「一体だけとはいえ鬼を倒したか」
幻聴かと思ったが、それにしてはハッキリと聞こえすぎている声に、喜ぶのを止めた碧は周囲の気配を探りながら返す。
「急になに?」
「いいやなにも」
男の声はどこか楽しそうで、身を害することは無いような気がしてきた。
碧が警戒を緩めるといきなり目の前に男の姿が現れた。
「――っ⁉」
一瞬だけ姿を消して斜め後ろに飛んだ碧を見て、男は愉快そうに笑う。
「安心しろ。あんたが警戒を緩めたから俺も姿を現しただけだ。だからそう構えるな」
「いきなり目の前に出てこられたら警戒して当たり前だと思うんだけど?」
その男は血のような赤い髪と、奈落のような暗い瞳を持つ男だった。
碧がこの男に抱いたその第一印象は『得体の知れないモノ』だった。
人の形をしているが人とは違うなにか。なにかが欠落した人ならざるモノだ。
だけどその口調は人としての、血の通った言葉を発する。
「悪い悪い、気をつけるよ」
口の端が耳につくのではないかと思ってしまう程の弧を描いて笑う。
見方によっては鬼よりも怖い。それでも、碧は努めて冷静に振舞う。
「こんな所になんでいるの?」
「それはお互い様だと思うぞ。ああ、もう目覚めの時間か、あんたの力は解った。じゃあな、碧――」
「は?」
なぜ男が自分の名前を知っているのか。それを聞き返す頃には、碧はもうそこにはいなかった。
「わーびっくりしたー‼」
勢い良く起き上がったアオを見たアサリナが声を上げる。
やはりさっきのは夢だったのか。それにしては寝ていたはずなのに僅かな疲労感がある。
謎は深まるばかりだが、とりあえず生きていたからよかったことにする。
スイを見るとまだ眠っており、起きているのはアオとアサリナの二人だった。
「どれぐらい経ってる?」
「うーん、夕方ぐらいかなー」
「結構寝たね。お腹空いた」
「じゃーあたしクレピスに貰ってくるよ」
「ありがと」
そう言って、アサリナは部屋を出ていき、アオはスイと二人っきりになる。
色々考えたいこともあるが、とりあえずはスイと二人っきりの時間を大切にしようと、眠っているスイの顔を覗き込む。
この世界のスイも、元の世界の翠と同じ見た目をしている。
真珠のように白く長い髪が、今は少しだけ痛んでいる。ちゃんと手入れをしてあげなければと思いながら、優しく髪の毛に触れていく。
徐々に頭に手を伸ばしていき、くすぐるように頭を触る。
微かに身じろぎしたスイを見て、気持ちが抑えられないアオは耳元に口を寄せて囁く。
「大好き、愛してる」
「……ん」
「あっ、ごめん。起こしちゃった」
自分の声でスイが起きてしまったことに謝りながら、アオは起き上がったスイを引き寄せ抱きしめる。
スイはアオよりも身長が高いが、素直にアオに甘えるスイはそんなことを感じさせない。
「アオ……?」
「どうしたの?」
「ありがとう。私を、助けてくれて。私の前に現れてくれて」
そう言いながら、アオの背に手をまわしたスイ。甘えてくれるスイの愛おしさにアオは情けなく表情が崩れてしまう。
「当然。わたしはスイのことを愛してるから。ずっと一緒、どこに行っても助けるし、隣にいるよ」
「どうして、私のことを……?」
「え?」
そう言えば、この世界のスイはアオのことを知らないはずなのだ。アオはスイのことを知っているからいつもみたいに接しているが、スイにとっては、いきなり現れて命を助けられたかと思えば、自分のことを愛していると言う人間が現れたということだ。
さっきまでのルドベキア達とのやり取りの間なにも言わなかったためそれを失念していた。
どう答えるべきだろうかと、どう答えても嫌われることは無いだろうから素直に答えるべきかと思ってアオは答える。
「スイはわたしのこと知らないと思うけど、わたしはずっとスイのことを探していたから」
「それは、別の世界の記憶が関係しているの……?」
「……うん。嫌だった?」
「嫌じゃないわよ、ありがとう……私を見つけてくれて」
そう言って、スイの宝石のような碧い瞳に涙が浮かんだ。
その後、戻って来たアサリナと三人で軽食を摂り、三人は風呂に向かった。
明日は街に出てスイの服など生活に必要な物を買いに行こうと話しながらの入浴は、穏やかな時間で、心身ともに癒された。
こうして、スイを救うための旅は終わりをこの時をもって終わりを迎えた。