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第121話

「お腹が空いたわね」


 それからしばらく歩くと、不意に翠がそう言った。


 実は碧もお腹が空いていて、その言葉に同意した。


「わたしも。ご飯あるの?」

「豪勢な物は無いけどね」


 そんな言葉と同時に、翠はズボンのポケットから小さな薄型のピルケースを取り出した。


 中から小さな塊を二粒手のひらに出して、その一つを碧に渡す。


 そしてピルケースをポケットにしまい、今度は水筒を取り出した。その水筒から、水を手のひらに置いた塊にかける。それを交互にかけて十秒待つ。


 水を吸った塊はむくむくと膨らみ、碧と翠の手のひらには、大きな皿に乗った牛肉のステーキがあった。


「十分豪勢だけど⁉」

「ふふっ、驚いた?」


 茶目っ気たっぷりに言う翠に碧は当然ながら見惚れてしまう。


 この世界での記憶の中では、たまにだが今みたいな翠を知っている。しかし、元の世界の翠は決して今みたいにはならない。


 元の世界の翠の記憶を濃く持っている今の碧にとっては、今この瞬間の茶目っ気たっぷりの翠の破壊力はかなりのものなのだ。


「好き……」

「急にどうしたのよ」


 思わず口を衝いて出た言葉に僅かばかり赤くなる翠である。


「そんなことより、早く食べましょ?」


 翠が付属のフォークを差し出して、それを碧はひったくるように取る。そのままその場に腰を下ろしてステーキにかぶりつく。


 歯を立てれば自然と切れ、奥歯ではその弾力を十分に味わい肉の甘みと旨みが溢れ出す。


 その美味しさに自然と身体が崩れてしまう碧。どうやら大丈夫だと思っていたが、身体は緊張していたらしい。


「美味しいわ。とっておいてよかった」


 隣に座った翠も、同じように味わって頬を緩ませている。


「どこでこれ手に入れたの? 良い食べ物は軒並み無くなっていたと思うんだけど……?」


 世界がこの惨状になった頃、まだ残っていた人々はこのような乾燥食品か合成食品で飢えを凌いでいた。合成食糧はさっきのガラスのドームでも製造機が置いてあり、それに加えて普及率もかなりのもの。美味しいが、乾燥食品に比べると味はいくらかは落ちてしまう。


 だから当初生き残った人類は乾燥食品を巡って争っていたのだ。


 当然それを繰り返すうちに、乾燥食品なんてものが無くなり、人はみな合成食品を食べるようになったのだ。


 それが数年前の話。


 碧と翠も隙を見て乾燥食品を探し出したりして、その味に舌鼓を打っていたこともある。今回の牛肉もその時に入手したものだろうか。

 その当時食べた乾燥食品――麻婆豆腐、筑前煮、フレンチトーストも十分美味しかったが、牛肉のステーキはそれ以上に美味しかった。

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