間違いない、リュカオンだ。
セフィリアは夢中で駆け寄ろうとするも、くいと腕を引かれる感触で立ち止まった。
「待ってください、お嬢さま。様子が変です」
カイルに引きとめられ、セフィリアは我に返る。
「ごめんなさい……巻き込んでしまって、ごめんなさい」
ひざをかかえてうずくまるリュカオンが、うわごとのようにくり返している。
そのたびに、リュカオンを中心にして波紋のようなものがひろがる。彼の感情が巻き起こす、さざなみのようだった。
真っ暗な空間に波打ったそれは、セフィリアの足もとに打ち寄せる寸前で、音もなく消え入った。
予想以上に、リュカオンの精神状態が不安定だ。
セフィリアはぐっと視線をあげると、つとめてやさしい声音でリュカオンへ呼びかける。
「殿下、私たちは大丈夫です。いっしょに帰りましょう?」
「でも……こんな得体の知れない力に支配されたわたしは、みなさんにご迷惑をかけてしまいます……」
「リュカオン殿下、あなたを悩ませているのは、黒魔法ではありません。あなたにやどっているのは、そんな禍々しい力じゃない」
「……え?」
わずかに、リュカオンが顔をあげる。
影をおびたチョコレートオパールの瞳が、たよりなく揺らめきながらセフィリアを映し出した。
「もっと自信をお持ちになってください。殿下なら、そのお力を使いこなせるはずです」
「でも、どうすればいいのか……」
セフィリアの言葉に、リュカオンは困惑を見せる。その根幹にあるのは、恐怖だ。
(殿下は毎晩、悪夢を見るのだとおっしゃっていたわ)
そのせいで不眠に悩まされ、精神的にも脆くなってしまっている。
ならば、原因を取り除いてしまえば。
「殿下がごらんになる悪夢というのは、どんなものなのですか?」
「っ……それは……」
「可能なかぎりでかまいませんので、教えていただけませんか?」
言いよどむリュカオン。
ざわざわと、彼の周囲に幾重もの波紋が巻き起こる。
「…………女性の、夢です」
長い長い沈黙があって、絞り出すようにリュカオンが言葉をつむいだ。
「女性、ですか?」
「母上ではありません。知らない方です。見覚えのないはずなのに……わたしにはなぜか、彼女のことが、赤の他人には思えなくて……」
ぐっと唇を噛みしめたリュカオンは、ふたたび自身のひざへ顔をうずめる。
「彼女には、たいせつに想う相手がいて……その感情を恋、というのでしょうか……でも、気持ちをつたえることはできない、つたえてはならない」
「気持ちを、つたえてはならない……?」
「そばで見守るだけでいい。それがあの方のしあわせだと自分に言い聞かせても……結局は、そのたいせつなひとさえも
セフィリアのすぐそばで、息をのむ気配がした。
ブルーの瞳を見ひらいたカイルが、食い入るようにリュカオンを見つめている。
「どうして守れなかった? なぜ救えなかった? あの方のいない世界に、価値などないのに。あぁ、こんなことになるのなら、すべてを打ち明けていればよかった……」
なにかに取り憑かれたように口走るリュカオンの声が、苦しげに詰まる。
「……彼女の悲しみや後悔が、押し寄せてくるんです。わたしのこころを滅茶苦茶に掻き乱す……」
「……同じだ」
息を吐き出すようにつぶやいたのは、カイルだ。
「俺のときと、同じ……やっぱり、おまえは……」
「カイルさん……?」
カイルの瞳には、なにが映っているというのだろうか。
恐る恐る問いかけるセフィリアへの返答はなく、カイルは一歩、リュカオンのほうへ踏み出すだけ。
「それは夢なんかじゃない。前世の記憶。おまえがやり残したこと。死んでも消えない後悔」
カイルの言動は、一国の王子に向けたものではない。
リュカオンに映し出した『だれか』に対するもの──リュカオンが『だれ』の生まれ変わりなのか、確信したものだ。
「前世の、記憶……? 彼女は、わたし自身……? そんなこと……」
「俺だってはじめは信じられなかったさ。けど俺はたしかに生まれ変わった」
「あなたも、生まれ変わった……?」
「あぁ。もうなにも救えなかった
「ナナ、ミ……うぅ、あぁあ……!」
「殿下!」
突如頭をかかえたリュカオンが、苦悶の表情でうめきはじめる。
とっさに駆け寄ろうとしたセフィリアだったが、カイルに制される。
「カイルさん……!」
「大丈夫ですから、俺にまかせてください」
カイルの視線は、リュカオンを捉えて離さない。
もはやセフィリアが止めても、聞き入れることはないだろう。
「わかるよ。後悔ばっかだよな。けど、いつまでもメソメソしてるヒマはないぞ。おまえだって生まれ変わったんだ」
「うまれ、かわった……」
「そうだ。今度こそ、たいせつなひとを守り抜くために。だからいい加減顔を上げろ。求めていたものはすぐそこにある。手を伸ばせば届くんだ」
頭を掻きむしっていたリュカオンが、はたと手を止める。
そうしてカイルの言葉に引き寄せられるように顔を上げ、セフィリアを映した瞬間──
──ぱぁああ。
今一度、まばゆい光があたりを埋め尽くす。
だが、思わず目をつむったセフィリアが次にまぶたを押し上げたとき、目前にひろがったのは漆黒の世界ではない。
青空に浮かんでいるような、穏やかに澄み切った世界だ。
「あぁ──」
感嘆のようなものが聞こえた。
それは、リュカオンのいた場所からそよ風に乗って届く。
けれどリュカオンの、おさない少年の声音ではない。
「…………え」
セフィリアはエメラルドの瞳を見ひらき、絶句した。
なぜならリュカオンのすがたが揺らめき、やがて現れた女性のすがたに、見覚えがあったから。
「運命とは、いじわるなものですね……」
セフィリアを見つめた『彼女』は、泣きそうな笑みを浮かべる。
「あなたには、こんな私のすがたを見られたくなかったのに……
「そん、な……」
『彼女』のことを、見間違うはずがない。
「……
衝撃に打ちひしがれるセフィリアをよそに、『彼女』の表情は凪いだものだった。
「お待たせしてごめんなさい。そして……また私を見つけてくれて、ありがとうございます」
『彼女』を見つめるカイルは、なにも言わない。
彼はいま、なにを思っているのだろうか。
「私はもう、自分のこころにうそはつきません。覚悟は、決めました」
もう一度、『彼女』がほほ笑む。
ふわ……と風がそよぐとともに、セフィリアの視界が淡いもやのように包まれる。
「さきに謝っておきます。ごめんなさい。私がどんな選択をしても受け入れてくださいね、花梨さま──セフィリアさま」
果てしない青の世界に、『彼女』の声だけがひびきわたる。
結局、その真意を知ることができないまま、セフィリアの意識はまばゆいばかりの光に奪われた。