一方で現在のわたあめは翼をもち虎ほどの体長があるものの、その毛並みは新雪のごとくまっさらな純白だ。
「力を取り戻したのか、わたあめ!」
「『前』のワタシとは少々すがたが異なるであろう。取り戻したというよりは、解き放たれたというほうが正しいか」
「解き放たれた……?」
「たがいに想い合う心。けがれなき愛。そちらの気高き魂にワタシの魂も共鳴したのだよ、
その言葉を受け、レイは手もとへ視線を落とす。セフィリア同様、淡い光が自身のからだをつつみ込んでいることに気づいたのだ。
セフィリアとレイ、ふたりをつつむ光を、わたあめのひたいに埋め込まれたルビーのような宝石がまばゆく反射する。
「こうして本来のすがたを得たからには、心配は無用。仮に悪意ある者がそちらにあだなそうとも──」
そこで言葉を区切ったわたあめは、つと正面へ視線を戻し。
──ガォオウッ!
猛り立つ咆哮を轟かせた。
「ワタシが、愛しい子らの盾となり矛となろう」
瞬間、忍び寄る黒き力が、セフィリアたちへたどり着くまでもなく咆哮に掻き消された。
「……これは、厄介だな」
クラヴィスがかかげた右手を引き、苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべる。
「どうしてなんだ、
独り言のようにこぼしながら、クラヴィスはうなだれる。
「
「なら、どうして!」
「
そうだ。燐が仙界へ連れて行ってくれなければ、愛花は星藍と出会うこともなかった。
──僕のところにおいで。きみが寂しくないように、そばにいてあげる。
幼い愛花の手を引いてくれた燐は、澄んだ瞳をしていた。
(燐師兄さまは、邪龍に心を支配されている……助けないと)
憎しみにとらわれているクラヴィスを──燐の魂を、悪しき呪いから解き放つ。
それこそ、いまのセフィリアがなすべきことなのだ。
ゆえにセフィリアは、真正面からクラヴィスを見据え、一歩をふみ出す。
「お嬢さま!」
「大丈夫ですから、私に任せてください」
すぐさまカイルの制止を受けるが、セフィリアは落ち着いた口調で返す。
クラヴィスの心の闇を消し去るためには、歩み寄ることが必要だから。
ゆらり。顔を上げたクラヴィスが、うつろなまなざしでセフィリアを映し出す。
「愛花……」
そんなクラヴィスへ、セフィリアはそっとかぶりを振ってみせた。
「いいえ。愛花はもういないの。私はセフィリア・アーレン──いまの私を見て」
すぐそばまで歩み寄ったセフィリアは、ぐっと背伸びをし、最後の距離を埋める。
小柄な少女が、その細腕いっぱいに、青年を抱きしめた。
「……あなたの孤独、心の叫びに気づいてあげられなくて、ごめんなさい」
「僕は……」
「これだけは伝えさせて。あなたの魂はあなたのものよ。邪龍なんかに負けないで。ひとを慈しむやさしいあなたに戻って。どうか私にとらわれず、あなた自身のしあわせを見つけて……クラヴィス」
「──っ!」
──ぱぁっ。
とたん、薄桃色に淡く光る花びらが、クラヴィスをつつみ込む。
「うっ……く!」
「大丈夫。大丈夫だから……」
顔を歪め、苦悶の表情を浮かべるクラヴィスを、セフィリアはきつく抱きしめた。
「愛花、
うわごとのようにつぶやくクラヴィス。そのアメジストの瞳から、ひとすじの涙がこぼれ落ちたとき。
「ごめん……おねがいだ。僕を…………ころ、して」
「え……?」
最後にそうとだけつぶやいて、クラヴィスはかくりとくずれ落ちた。
「『ころして』って、どういう──」
なぜだろうか、妙に胸がざわつく。
セフィリアは息をのみ、意識を飛ばしたクラヴィスのほほに指先を伸ばす。
「──離れろリアッ!」
そのとき、鋭いレイの叫びが響きわたった。
え、と意味のない声がセフィリアの口からこぼれるころ、ものすごい力で腕を引き寄せられ。
「え……レイ? それに……カイルさんに、わたあめちゃんも!」
気づけばセフィリアは、レイの腕の中にいた。
そしてセフィリアをかばうように、カイルとわたあめが目前に立ちはだかる。
「親玉がおいでなすったってか……」
短剣を構えるカイルの目と鼻の先から、黒いもやのようなものが立ちこめている。
「……ックク……ハハハハッ!」
突如として、クラヴィスが高らかな笑いとともに起き上がった。
(いや、違う……)
セフィリアは呼吸も忘れ、目前の出来事を凝視する。
「弱い弱い……所詮は人の子。取るに足りぬ塵のような魂だ」
クク、と可笑しげに声を震わせているのは、クラヴィスであってクラヴィスではない。
なぜならアメジストのごとき瞳が、深淵のような漆黒に染まっていたからだ。
「邪龍め……肉体を乗っ取りおったか!」
「乗っ取る? 馬鹿を言うな。この者と私は一心同体。私のモノを私が使ってなにが悪い」
クラヴィスらしからぬ不遜な物言いに、セフィリアははっとした。すぐに、腹の底からふつふつと怒りがこみ上げる。
「いますぐ、そのからだから出て行きなさい」
「嫌だと言ったら?」
「ただではすまさないわ。出て行きなさい!」
「おぉ、怖い怖い……そんなことを言っても、おまえたちにできることはなにもないというのに」
クラヴィス──いや邪龍は、セフィリアたちを見回し、鼻を鳴らして嘲笑する。
「ただ、私は慈悲深いからな。おまえたちに猶予をやろう」
「猶予、ですって?」
「そうだ。この者の愛執……これが実に心地いい。小娘、おまえをわが手中におさめたなら、より甘美な執着を味わうことができるだろう」
セフィリアを手中におさめる。それはつまり。
「赤い月の昇る夜。小娘、おまえを私のモノにする。それまでせいぜい短き人の生を謳歌しておくことだな」
「堂々とセフィリアお嬢さまの誘拐宣言か? ふざけんな! てめぇはここでぶっ飛ばしてやる!」
「できるものなら」
──ビュオウッ!
突風が吹き、短剣を手に飛びかかろうとしたカイルが体勢を崩す。
「ちっ……この野郎!」
とっさに立て直したカイルが睨みつけるものの、邪龍は顔色ひとつ変えない。
「愚かな人間どもだ……」
相手は神。それも破滅をもたらす邪神だ。
けれど、脅威を目の当たりにしてなお、セフィリアの心は凪いでいた。
「邪龍よ。あなたにとって、私たちはちっぽけな存在なのでしょう。けれど見くびらないで。みんなで力を合わせて、かならずあなたを倒します」
「ほう……威勢のいい小娘だ。悪くない」
背をしゃんと伸ばし、毅然とした態度で告げるセフィリアに、邪龍は満足げな笑みをこぼす。
ビュオオウウッ!
風が吹き荒れる。目も開けていられないほどの強風が。
「──覚悟しておけ。おまえのその清らかな心も、からだも、私が暴いてやろう」
最後にそう言い残し、邪龍はすがたを消した。
あとには、窓枠の向こうに漆黒の夜と静けさが広がるのみ。
「できるものなら。──私たちは、負けない」
カイル、わたあめ、そしてレイ。
セフィリアと同様に、みな前を向いていた。
希望を捨てず、けっしてくじけることはない。
なぜなら、どんなに長い夜にも、かならず夜明けはおとずれるのだから。
【第2章 完】